2015年3月29日(日)、昨日の好天と打って変わり、曇天の日曜日、自宅近くの桜の名所を歩き回わりました。江戸の桜の名所と言えば、昨日行った上野公園、芝増上寺それに御殿山と相場が決まっています。
上野は前日の28日(土)に隅々歩き回り写真を撮ってきました。増上寺はこの半年、徳川家の霊廟、宝塔、灯籠問題でさんざん訪問しています。
今日、3月29日は自宅からほど近い、目黒川沿い、御殿山、島津山、池田山を歩いて回りました。自宅を出たのは午前11時頃、まずは不動前の
禿坂(かむろざか)を目指します。
曇天なので色はうまくでていませんが、下が 禿坂(かむろざか)のサクラです。サクラのアーケードとなり道路が見えないほどです。
かむろ坂の位置 出典:グーグルマップ
下はかむろ坂のサクラ並木です。
かむろ坂の桜
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-29
◆かむろ坂(禿坂・かむろざか)
東京都品川区西五反田4丁目にある坂です。山手通りのかむろ坂下交差点を坂下として西へ上り東京都道420号鮫洲大山線武蔵小山方面へと抜ける全長約480メートル、最大勾配3.5%、幅は13mの坂です。春は道の両側に植えられた桜並木が美しく、坂に面して品川区立第四日野小学校があります。
かむろ坂
名称として、かむろは漢字で禿と書くがこれは「はげ」のことではなく、個人名でもなく、江戸時代の高級遊女(吉原などの高級売春婦)の召使いの少女達をさして禿(かむろ)と言っていたそうです。
伝承によるとかむろ坂の名称は、歌舞伎や浄瑠璃の題目として有名な白井権八伝説にちなむものであるとのことです。
さらに江戸前期、同じ藩の侍を斬って浪人になった元鳥取藩士平井権八が、その後江戸で辻斬り強盗を働き、その罪で延宝7年(1679年)に鈴ケ森刑場において処刑され目黒の冷法寺に葬られました。
江戸において平井権八と恋仲となっていた吉原の三浦屋の遊女・小紫は、権八の処刑の報を聞いて店を抜け出し、冷法寺に向かい墓前で悲しみのあまり自ら命を絶ったそうです。帰らない小紫を心配した三浦屋の下女であった「かむろ」が目黒へと向かい、小紫の死を知りました。
その帰り道に当地の付近で襲われそうになり、桐ケ谷二つ池に飛び込み自害したそうです。これを偲んでかむろ坂の名称がついたといわれています。また、おなじ伝承から近くの攻玉社学園付近の高台は禿山(かむろやま)と、かつては言っていたそうです。
出典:Wikipedia |
禿坂(かむろざか)を下がり切ると、環状六号線にでますが、下の写真のように道路標識の周りはサクラの花、花、花です。
かむろ坂の桜
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-29
私は右でも左でも無く、真ん中を突っ切り目黒川の河畔にでます。下の写真は目黒川のサクラ見学遊覧クルーズ(笑い)です。
私達(環境総合研究所)のオフィスが下の写真の対岸にありますマンション雅叙苑にあったことがあり、その昔は目黒川の水質汚濁の臭いで到底、クルーズどころじゃなかったのですが、今はかなり汚濁が削減され臭いもほとんど目立たなくなっています。
妻によると、大手旅行代理店が目黒川のサクラクルーズをはじめたとのことで、何種類もの船が満員の客を乗せて走っていました。
目黒川の桜遊覧船(桜見物船)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-29
下の写真で背景に写っているマンションがマンション雅叙苑です。東京23区で一番古い大型マンションです。屋上にはプールもあり、当時としては大規模だけでなく、斬新だったのでしょう。最近リニューアルし、壁面も塗り替えたようです。
写真で分かるように、このあたりのソメイヨシノのサクラは川面まで垂れ下がり、一面がサクラとなっています。今日はまさに満開でしたが、例年に比べ少し早いようです。
マンション雅叙苑に事務所があったときは、真ん前なので昼休み、夜を問わずサクラを堪能していました。
目黒川の桜 マンション雅叙苑前
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-29
もう少し上流側に行くと,別のサクラ遊覧船がでていました。
目黒川の桜遊覧船(桜見物船)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-29
さらに上流側(目黒区側)に行くと、下の写真のようになります。
左側にある大きなビルは、有名な目黒雅叙園です。この目黒雅叙園が全国的に有名な理由のひとつは、日本一超豪華なトイレがあることです。またすべてが雅(みやび)なつくりとなっています。
下の写真には小さなモーターボートが写っています。このボートも桜見学で目黒川をのぼってきたようです。
目黒川の桜 目黒雅叙園前
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-29
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-29
下は目黒雅叙園の紹介です。
◆目黒雅叙園について
株式会社 目黒雅叙園 K.K. MEGURO GAJOEN
本社所在地 日本の旗 日本
〒153-0064 東京都目黒区下目黒1丁目8番1号
設立 2003年(平成15年)5月 資本金 3億7,800万円
主要株主 (株)ワタベウェディング 100%
目黒雅叙園は、東京都目黒区にある結婚式場・ホテル・レストランなどの複合施設です。
石川県出身の創業者・細川力蔵が、1928年(昭和3年)に東京・芝浦にある自邸を改築し、純日本式の料亭「芝浦雅叙園」を経営していましたが、東京府荏原郡目黒町大字下目黒字坂下耕地一帯および岩永省一邸として記録された建造物を入手し、増改築を進め1931年(昭和6年)に「目黒雅叙園」と名付けた料亭を開業しました。これは、日本国内最初の総合結婚式場でもありました。
出典:目黒雅叙園
出典:目黒雅叙園
出典:目黒雅叙園
木造(旧館)の目黒雅叙園は太宰治の小説『佳日』にも登場します。絢爛たる装飾を施された園内の様子は「昭和の竜宮城」とも呼ばれ、ケヤキの板材で作られた園内唯一の木造建築「百段階段」(実際は99段)とその階段沿いに作られた7つの座敷棟宴会場の内の4つは、2009年3月16日に東京都指定の登録有形文化財(建造物)に登録されています。
1945年(昭和20年)8月15日正午、大西瀧治郎中将は終戦の玉音放送を軍令部の中庭で聞いた後、当時、海軍病院の分室だったこの雅叙園を訪れ同期生の多田海軍次官を見舞っています。その深夜、渋谷区南平台の官舎に帰り、翌16日に特攻作戦の責を取るとして遺書を残して14時45分に割腹自決を遂げています。
1991年(平成3年)の全面改築は日建設計および鹿島建設によるもので、このリニューアルに際し、園内のエレベーター壁面や室内に使われた螺鈿や漆による装飾は、韓国の漆芸家・全龍福(チョン・ヨンボク)によって新たに制作、もしくは修復されています。一階にある化粧室(トイレ)の内装も彼の手による漆工芸によって装飾されています。
昭和初期に建設された木造の旧館においては、敗戦直前の昭和19年頃まで、戦時下の国民が苦しい時局や贅沢禁止令下にもかかわらず、大勢の著名な画家や彫刻家、塗師が出入りし、あるいは泊り込み、部屋ごとに女中と書生付きで数年にわたり内装や絵画作品を完成させたとわれています。
出典:Wikipedia |
つづく
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