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建長寺、円応寺を参拝した後、私達は県道21号線を道なりに鶴岡八幡宮に向かいました。下は建長寺、円応寺と鶴岡八幡宮の位置関係を示したグーグルマップです。 出典:グーグルマップ 出典:グーグルマップ 円応寺から鶴岡八幡宮に行く道には、以下のようなアーケード状になっている部分がありました。一般道でのこのような構造は、たとえば防音壁、雪よけ、ゴルフ場近くでのボールよけなどがありますが、ここの場合、目的がすぐには分かりませんでした。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-11-27 さらにゆくと、八幡宮の手前に落ち着いた下の写真ような民家が昼食を提供しているようなので入ってみました。下はその民家の前に立つ池田です。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-11-27 昼食メニューは1種類だけです。下は注文したその特製ビーフカレーを待つ池田です。特製ビーフカレーはなかなかの美味でした。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-11-27 昼食後、カレーに付いていたコーヒーを頂いたあと、秋晴れの北鎌倉を鶴岡八幡宮に向かって歩きます。とはいえ、ここから八幡宮は目と鼻の先です。 私達は昼食後、下の境内案内図の左上(至北鎌倉駅)から境内に入りました。 出典:鶴岡八幡宮 ◆鶴岡八幡宮 下が鶴岡八幡宮です。よく正月のテレビのニュースで見る光景です。この日は土日、祝祭日でもないのに多数の参拝客で鶴岡八幡宮は賑わっていました。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-11-27 ◆鶴岡八幡宮の概要 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-11-27 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-11-27 鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市にある神社。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 別称として鎌倉八幡宮とも呼ばれる。武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として全国の八幡社の中では知名度が高く、近年では三大八幡宮の一社に入ることがある[注釈 1]。境内は国の史跡に指定されている。 祭神 現在の祭神は以下の3柱。「八幡神」と総称される。 応神天皇 (おうじんてんのう) - 第15代天皇 比売神 (ひめがみ) 神功皇后 (じんぐうこうごう) - 第14代仲哀天皇の妃、応神天皇の母 ◆歴史 康平6年(1063年)8月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりです。永保元年(1081年)2月には河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えています。 治承4年(1180年)10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷します。 以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備して行きました。建久2年(1191年)に、社殿の焼失を機に、上宮と下宮の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請しました。承元2年(1208年)には神宮寺が創建されます。 源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、源義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集めました。鎌倉幕府衰退後は、25の僧坊の数も減少し、一時衰退します。戦国時代には里見氏により焼き討ちにあうも(鶴岡八幡宮の戦い)、北条氏綱が再建を果たします。 江戸時代に入ると江戸幕府の庇護を受け大規模化が進み、仁王門、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂、観音堂 法華堂、弁天堂等を建築し、徳川家光の治世に薬師堂、鐘楼、楼門なども建てられました。また境内には、方五間の多宝大塔、東照宮も存在しています。 江戸幕府崩壊後、慶応4年(1868年)3月13日に「神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」が明治政府から出され、また明治3年(1870年)に大教宣布[1]がなされると、鶴岡八幡宮においてもいわゆる廃仏毀釈の動きが始まりました。 同年中に多宝大塔などの仏堂は破壊され、仏像、仏具、什宝、経典なども破壊・焼却処分されるか散佚しました。ただし一部は現存し、鎌倉寿福寺、浅草寺、普門院、五島美術館、東京国立博物館に保管されています。 廃仏毀釈で撤去された大塔 出典:Wikipedia 鶴岡八幡宮の場合、これらは神主に改名した十二院の社僧が中心となって行いました。また、一部残存していた仏堂も、その後の火事で焼失しましたが、外国人観光客等が撮影した写真やスケッチが残されています。 明治の近代社格制度では県社に列し、1882年に国幣中社に昇格、、戦後は神社本庁の別表神社に列しています。近年は全国一の宮会に加盟しており、相模国の一宮と扱われることもあります(ただし歴史的には一宮は寒川神社とされています)。 年表 康平6年(1063年)8月、源頼義が河内源氏氏神の壷井八幡宮あるいは京都の石清水八幡宮を勧請(鶴岡若宮) 永保元年(1081年)2月、源義家が修復 治承4年(1180年)10月12日、源頼朝が現在の小林郷北山に遷座 建久3年(1192年)、源頼朝が征夷大将軍に就任 承元2年(1208年)、神宮寺創建 建保7年(1219年)、源実朝が甥の公暁に襲われ落命 文明10年(1479年)1月27日、江戸城西方の守護として太田道灌が鶴岡八幡を江戸番町に勧請 大永6年(1526年)11月12日、里見義豊・実堯と北条氏綱の間の合戦で社殿が焼失(鶴岡八幡宮の戦い) 天文9年(1540年)、大永の戦乱で焼失にした社殿を北条氏綱が再建 文政11年(1828年)、江戸幕府11代将軍、徳川家斉の命により本殿等が造営 明治元年(1868年)3月、神仏分離令により廃仏毀釈開始 明治元年(1868年)4月24日、仏教的神号の八幡大菩薩が明治政府により廃止 明治元年(1868年)7月19日、石清水八幡宮以下、鶴岡八幡宮などの放生会は中秋祭に変更 明治4年(1871年)5月14日、社格制度制定 ◆境内 本宮(上宮)は文政11年(1828年)に徳川家斉が再建した流権現造で、国の重要文化財に指定されています。本宮は大石段上にあります。 大石段は61段あり、登りきると桜門、その奥に拝殿とつながった本宮があります。石段下にある舞殿は、「下拝殿」ともいいます。前面にある建築物は21世紀に入ってから増築されたもので、当初は朱塗りではなく白木造りでした。 また境内には「源平池」として、北条政子が掘らせたと伝わる池があります。 源氏池には島が3つ、平家池には島が4つ浮かび、それぞれ産と死を表すといいます。源氏池の島には旗上弁天社があります。源平池には横切るように石造の橋が架けられ「太鼓橋」と称されます。 創建当時は木造で、朱塗りだったため「赤橋」と呼ばれました。北条氏の庶流・赤橋家の苗字はこの橋の名称に由来しています。 現在は柵で締め切られていますが昭和時代までは自由に通行可能で、橋上は記念撮影のスポットとして良く使われていました。 なお、源頼朝の求めに応じて舞った静御前が源義経を慕う次の歌を詠んだとされていますが、当時はまだ舞殿は建立されておらず、若宮社殿の回廊で舞ったとされています。 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな 本宮(上宮) 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-11-27 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-11-27 舞殿 舞殿 出典:Wikipedia 舞殿 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 舞殿 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 関東大震災で倒壊した舞殿 出典:Wikipedia ◆鎌倉の都市造営と鶴岡八幡宮の整備 頼朝の鎌倉入りと都市造営は、それまで京都の公家たちに従属していた武士の歴史として画期的な意味を持ちました。 まず、頼朝は居館の建築と、鶴岡八幡宮の整備を行います。鶴岡宮は地勢的にも精神的な位置においても都市鎌倉の中心を占めるものであり、京都における内裏に匹敵するもので、中央から下向した天台宗・真言宗の僧が、供僧として運営の主導権を握っていました。 そこでは放生会といった年中行事が整備される一方、それに際し奉納される流鏑馬や笠懸は武家社会を代表する重要行事となったのです。 新造の武家の都を飾る建設は続き、源義朝の菩提勝長寿院や、中尊寺の二階大堂を模した永福寺、13世紀に入ると寿福寺・東勝寺といった禅宗の寺が次々に建立されました。 禅宗は特に保護されて、北鎌倉には渡来僧を開山とする建長寺や円覚寺などの巨刹が偉容を示すことになったのです。 出典:Wikipedia つづく |