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短訪 北鎌倉

妙本寺・まとめ

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
December 29, 2015
Independent Media E-wave Tokyo



 八雲神社に到着した後、私達は鎌倉駅まで鎌倉市内を歩きました。鎌倉駅に行く途中、鎌倉で有名な妙本寺の前を通りました。八雲神社から妙本寺までは5-6分です。


出典:グーグルマップ 

 妙本寺は山号を長興寺といい、開山は日朗、開基は比企能員の子・熊本で、 文応元年(1260)の建立と伝えれています。 このあたりを比企が谷といい、鎌倉時代には比企一族が住んでいました。 全国の日蓮宗院中で最古の寺だそうです。参考:鎌倉町青年団


妙本寺、左下は三門と比企谷幼稚園(八角形)
出典:グーグルマップ


妙本寺(みょうほんじ)


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2015-11-27



妙本寺 (トリップアドバイザー提供)



妙本寺 (トリップアドバイザー提供)



妙本寺 (トリップアドバイザー提供)


◆妙本寺の概要


 妙本寺は、神奈川県鎌倉市大町にある、日蓮宗の本山(霊跡寺院)。山号は長興山。

歴史

 妙本寺のある鎌倉の谷戸は、現在は比企谷(ひきがやつ)と呼ばれ、鎌倉時代には比企能員一族の屋敷がありました。

 比企能員は、源頼朝に仕えた御家人で、頼朝の乳母・比企尼の養子にあたり、妻は源頼家の乳母、娘の若狭局は頼家の妻となり頼家の子・一幡を生むなど、源氏とは深い関係を持っていました。そのため、頼朝の妻・北条政子の実家である北条氏とは対立するようになりました。

 1203年(建仁3年)頼家が病気で倒れると、次の将軍を誰にするかで、千幡(後の源実朝)を推す北条氏と、若狭局が生んだ一幡を推す比企氏の間で争いが起きました。

 能員は頼家と北条氏討伐を謀るが察知され、名越で殺害され、比企一族は比企谷の谷戸(小御所)に篭って北条氏らの軍勢と戦うが敗れ、屋敷に火を放って自害しました(比企能員の変)。若狭局は、池(蛇苦止の池)に身を投げて自害し、一幡も戦火の中で死んだのです。

 能員の末子・能本は生き残り、後に京都へ行き、順徳天皇に仕え、承久の乱で順徳天皇が配流になると、佐渡まで供をしました。彼の姪にあたる竹御所(源頼家の娘)が4代将軍九条頼経の妻になったことから許されて鎌倉に帰りました。1234年(文暦元年)竹御所は出産時に死去します。


妙本寺 出典:妙本寺公式WEB


妙本寺 (トリップアドバイザー提供)


妙本寺

 自仏像であった釈迦如来像を祀るため、新釈迦堂の建立を遺言にします。1235年(嘉禎元年)新釈迦堂が建立されます。竹御所は新釈迦堂のその下に葬られました。

 1243年(寛元元年)仙覚が新釈迦堂の寺住となります。

 1246年(寛元4年)仙覚は万葉集の校訂を成し遂げます。1253年(建長5年)能本は日蓮に帰依します。1260年(文応元年)能本は菩提を弔うため、日蓮に屋敷を献上し法華堂を建立します。これが、妙本寺の前身です。

 その後、日蓮の弟子・日朗が妙本寺を継承しました。

 以後、妙本寺か日蓮宗の重要な拠点となります。池上本門寺と当山は両山一首制で一人の住職が管理していました。

 江戸時代には池上本門寺に住職がおり当山は司務職として本行院の住職が管理していました。1842年(天保13年)天保の改革にて廃寺となった感応寺の厨子を移設します。両山一首制は1941年(昭和16年)まで続きました。

 江戸初期の弾圧までは不受不施派の末寺を多く抱えていました。2004年(平成16年)由緒寺院から霊跡寺院に昇格します。

 現住は80世早水日秀貫首(大田区本妙院より晋山)。池上法縁五本山の一つとなっています。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-11-27

 下は紅葉の季節の妙本寺です。
 

妙本寺 (トリップアドバイザー提供)

寺宝

 十界曼荼羅 弘安3年3月(1280年)揮毫。日蓮が池上宗仲邸(現在の本行寺)で臨終する際に枕元に掛けられたとされることから、「臨滅度時の御本尊」と通称され、日蓮宗の宗定本尊とされています。「蓮」の字の最終画が蛇が這うようにくねっていることから、「蛇形本尊」とも称されます。

 この他、日蓮真筆の曼荼羅2本(弘安3年4月、建治元年(1275年)揮毫)が伝来しています。また、妙本寺二世日朗の曼荼羅(正和2年(1313年)揮毫)、妙本寺三世日輪[要曖昧さ回避]の曼荼羅2本(観応2年(1350年)、康永2年(1343年)揮毫)、日像の曼荼羅(暦応3年(1340年)揮毫)も伝来しています。

 釈迦如来像 竹御所の供養堂であった新釈迦堂にあったもの。新釈迦堂は天保年間に祖師堂左手に移築されましたが、関東大震災にて倒壊し、今日では霊宝殿となっています。

木造日蓮聖人像 祖師堂に安置。
銅造雲版 国の重要文化財。

境内

・一幡の袖塚 比企の乱後、焼け跡の中からわずかに見つかったという袖をまつる。戦火の中、6歳で死んだ一幡の袖だという。
・比企一族供養塔 祖師堂横に並ぶ。
・前田利家室塔 前田利家の側室、三代利常の母千代保の方の供養塔と伝えられる大五輪塔。
・蛇苦止堂 比企の乱で井戸(一説に池)に飛び込んで自害したという若狭局を祀る。自害した若狭局は、後に北条政村の娘に霊となって憑き、日蓮によって供養され祀られた。
・蛇苦止の井 若狭局が身を投げたという井戸
・祖師堂 鎌倉最大級の木造仏堂建築。
・万葉集研究遺跡の碑 仙覚が成した、現在の万葉集研究につながる重要な研究を顕彰したもの。
・祇園山ハイキングコース 裏手墓地から祇園山ハイキングコースの途中につながる。
・祖師堂の前の海棠 初春(桜のあと)に咲く。女性をめぐって喧嘩していた中原中也と小林秀雄はここで和解した。

人物
・日蓮(開山)
・日朗(二世)
・日輪(三世)
・日山(四世)
・日叡(五世)
・日行[要曖昧さ回避](二世)
・日寿(七世)
・日調(八世)
・日正[要曖昧さ回避]
・日純[要曖昧さ回避](九世)
・日陽(十世)
・日現(十一世)


◆比企谷幼稚園


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2015-11-27

 昭和10年の頃、大正12年の関東大震災によって倒壊し、その復興を待ち望まれた、当時比企谷妙本寺の支院であった大円院境内に建築工事が始まり、昭和12年3月八角形の夢殿を模した見事な建物が完成されました。

 これは、当時の比企谷妙本寺貫首島田勝存上人の発願による宗教的情操を基盤とする幼児教育の殿堂、比企谷幼稚園で、昭和12年4月開園始業し明るく楽しい歓声があふれ、その活動が開始されました。

 妙本寺の緑あふれる幽遂な境内は、園外保育、観察、運動等に随時活用され、春の花、秋の紅葉を賞でつつ大自然の営みの中に壊かれて、幼な心にその感性を深め、御本尊に合掌しては敬いの心を養い、友と交わりては信と和の必要性を自覚し、明るく楽しい活動が展開され今日に至っている。

出典:比企谷幼稚園公式Web


◆池上本門寺

 池上本門寺(いけがみほんもんじ)は、東京都大田区池上にある日蓮宗の大本山。

概要
 寺格は大本山、山号を長栄山、院号を大国院、寺号を本門寺とし、古くより池上本門寺と呼ばれてきた。また日蓮聖人入滅の霊場として日蓮宗の十四霊蹟寺院のひとつとされ、七大本山のひとつにも挙げられている。


大堂(祖師堂)


本堂

歴史
 弘安5年(1282年)9月8日、病身の日蓮は身延山を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ向かう。9月18日に武蔵国池上郷(東京都大田区池上)の池上宗仲の館に到着。生涯最後の20数日間を過ごすこととなる。同年同月に、池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源という。

 同年10月13日に日蓮が没すると、池上宗仲は法華経の字数(69,384)に合わせて六万九千三八四坪を寺領として寄進し寺院の基礎が築かれ、以来「池上本門寺」と呼びならわされている。その後は日蓮の弟子・日朗が本門寺を継承した。

 池上氏館の居館部分は本門寺西側の谷の一帯にあったと考えられており、現在は、1276年(建治2年)建立された池上氏館内の持仏堂(法華堂)を起源とする本門寺の子院・大坊本行寺の境内となっている。

 本門寺は、鎌倉・室町時代を通じて関東武士の庇護を受け、近世に入ってからも加藤清正や紀伊徳川家等諸侯の祈願寺となり栄えた。

 江戸時代、不受不施派を奉ずる本門寺は、身池対論を経て久遠寺の傘下に収まった。第二次世界大戦の空襲によって五重塔、総門、経蔵、宝塔を除く堂宇を焼失したが、戦後順次復興した。

出典:Wikipedia


◆一日の北鎌倉探訪のまとめ

 わずか半日ちょっとの短い北鎌倉探訪、それも駆け足での参拝と視察でしたが、大変中身の濃い、すがすがしい視察でした。機会があれば再度、鎌倉を探訪してみたいと思います。

 下の地図は、必ずしも正確なルートではありませんが、北鎌倉駅から建長寺、鶴岡八幡宮、江柄天神社、鎌倉宮、東勝寺跡、祇園山トレッキング、八雲神社、鎌倉駅まで、歩いたルートをヤフー地図上にプロットしたものです。全長は7km弱でした。


探訪 北鎌倉 まとめ   出典:ヤフーマップ

 なお、私達はJR鎌倉駅から横須賀線に乗り、横浜駅で下車し、その後、ひさしぶりに横浜中華街に行き夕食を頂きました。乗った横須賀線がまたしても超満員、びっくりしました!

 下は鎌倉駅前の池田です。


JR鎌倉駅前
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2015-11-27

 
ひさしぶりに横浜中華街
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2015-11-27


本稿はこれで終了!