エントランスへはここをクリック   

短訪 北鎌倉

鎌倉宮

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
December 29, 2015
Independent Media E-wave Tokyo


 
 菅原道真を祀っている江柄天神社を後に、私達は鎌倉宮に向かいました。


出典:グーグルマップ

◆鎌倉宮

所在地 神奈川県鎌倉市二階堂154
位置 北緯35度19分34.57秒
主祭神 護良親王
社格等 官幣中社
創建 明治2年(1869年)
例祭 8月20日


鎌倉宮 (トリップアドバイザー提供)

概要

 鎌倉宮(かまくらぐう)は、神奈川県鎌倉市にある神社です。

 護良親王(もりながしんのう)を祭神としています。建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社です。 神社本庁の包括下には当初より入っていない単立の神社です。別名 大塔宮(おおとうのみや)といいます。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-11-27


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-11-27

解説

 祭神である護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現しましたが、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられ東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)の中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博(ふちべのよしひろ)によって殺められました。

 武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、明治2年(1869年)2月、明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じました。6月14日に鎌倉宮の社号が下賜され、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営されました。

 明治6年4月16日に明治天皇は鎌倉宮を行幸、同年6月9日に鎌倉宮は官幣中社に列格しました。

 本殿の後方にある土手の穴が、親王がおよそ9か月間幽閉されていた土牢であるという古伝承があります。その土窟は2段になっています。



 「鎌倉覧勝考」によれば、上段は入り口から6尺ばかりの深さで2間四方余あり、下段はさらに7、8尺下って9尺四方あり、周囲は赤い土であるといい、さらに、「太平記」に「建武元年五月二日大塔宮を足利直義うけ取鎌倉へ下し奉つて、二階堂谷に土籠を塗てぞ置参らせける」とあり、土の牢とは記されておらず、薬師堂谷の御所または牢の御所と書いているものもあり、土籠は塗りごめた土蔵であり、四面を禁錮して入れ置いたのであるから、牢の御所と称したにすぎないといいます。


出典:Wikipedia

◆鎌倉宮の縁起
  出典:鎌倉宮 公式Web

 鎌倉宮は、大塔宮(おおとうのみや) 護良親王(もりながしんのう)をお祀(まつ)りする神社です。
護良親王(もりながしんのう)は延慶元年(1308年)に後醍醐天皇の皇子としてご誕生になりました。

 6歳の時に京都の三千院にお入りになりますが、11歳で比叡山延暦寺に入室し、尊雲法親王(そんうんほっしんのう)と呼ばれ、天台座主(てんだいざす)となられます。

 当時、鎌倉幕府の専横な政治に、父帝の後醍醐天皇は国家の荒廃を憂えられ、親王と共に元弘元年(1331年)6月、比叡山にて討幕の挙兵をする手筈でした。しかし、この計画は幕府の知るところとなり天皇は捕らえられ、隠岐に配流(はいる)となります。

 親王は還俗(げんぞく)して、名を護良(もりなが)と改め、天皇の代わりとなって楠木正成らと、幾多の苦戦にも屈せず機知を持った戦で大群を吉野城や千早城に引きつけました。

 この間にも親王の討幕を促した令旨(りょうじ)に各地の武士が次々と挙兵し、中でも足利尊氏、赤松則村らが六波羅探題を落とし、また新田義貞が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は北条一族と共に滅びます。

 後醍醐天皇は京都に還御され、親王はこの功により兵部卿・征夷大将軍となられます。

 しかし尊氏は征夷大将軍を欲し、諸国の武士へ自らが武家の棟梁であることを誇示した為、親王は尊氏による幕府擁立を危惧し、兵を集めます。

 ところが、逆に高氏の奸策(かんさく)に遭い捕らえられ、鎌倉 東光寺の土牢に幽閉されます。建武元年(1334年)の11月15日の事です。

 建武2年(1335年)7月23日 残党を集め鎌倉に攻め入った北条時行の軍に破れた尊氏の弟、足利直義は逃れる際に、家臣 淵辺義博へ親王暗殺を命じました。

 義博の凶刃に対して、親王は9ヶ月をも幽閉された御身では戦う事も出きず、御年わずか28歳という若さでその苦闘の生涯を薨じられました。

明治2年2月、明治天皇は建武中興に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王(もりながしんのう)に対して、遥かに想いを馳せられ、親王の御遺志を高く称え、永久に伝えることを強く望まれました。

 親王終焉の地、東光寺跡に神社造営のご勅命を発せられて、御自ら宮号を「鎌倉宮(かまくらぐう)」と名づけられました。

 なお、明治6年4月16日、明治天皇は初めて鎌倉宮に行幸遊ばされました。お休みになられた行在所は現在、宝物殿・儀式殿となっております。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-11-27


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-11-27



鎌倉宮 (トリップアドバイザー提供)


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-11-27


つづく