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この後、鎌倉宮から東勝寺跡に向かいました。徒歩で約20分ほどです。 出典:グーグルマップ 途中、滑川という川を渡る手前に瀟洒な建物でカフェをしている場所を見つけ、一服することにしました。 下の写真がそのカフェです。何でもNHKの大河ドラマなどにも出演 したことがある という女優さんのご自宅のようで、一階部分でカフェをしていました。おいしいタンザニア産のコーヒー豆から本格的にコーヒーを入れて頂きました。また抹茶のロールケーキも大変美味しく、散策の合間の一休みとなりました。 このカフェでは、隣を流れる滑川のせせらぎ、晩秋の日差し、それに風などを感じながら飲んだコーヒーが大変美味しかったです。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-11-27 このカフェから東勝寺跡まではすぐです。この辺は鎌倉市小町3丁目です。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-11-27 下は滑川です。カフェのすぐ隣を流れています。 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-11-27
なお、滑川にかかる橋、「東勝寺橋」は、震災復興期の大正13年(1924)、鉄筋コンクリートが積極的に導入されたときに 建造されたアーチ構造の橋です。 太く安定感のあるアーチング、V字形の谷間との微妙なバランスなど、 その美しい姿は地域の人々だけでなく観光客にも愛されているようです。 下が東勝寺跡の写真です。 フェンスの中が東勝寺の跡です。この道の先に「腹切りやぐら」があります。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-11-27 残念ながら発掘調査などとの関係か、東勝寺跡には入れませんでした。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-11-27 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-11-27
以下は東勝寺についての解説です。 ◆東勝寺(とうしょうじ) 東勝寺(とうしょうじ)は、かつて神奈川県鎌倉市葛西ケ谷にあった寺院で、鎌倉幕府の執権として活躍した北条氏の菩提寺のひとつ。関東十刹の一つでした。 沿革 開山は栄西の弟子の退耕行勇、開基は北条泰時です。 1225年(嘉禄元年)、執権となった北条泰時は鎌倉の鶴岡八幡宮境内の南東、滑川をこえた葛西ケ谷の谷間に当寺を築き、北条一族の菩提寺としました。 この寺は、菩提寺であると同時に有事に備えた城塞の意味をもった寺院であったと推測されます。 1333年(元弘3年)、後醍醐天皇に呼応して鎌倉に攻め寄せた新田義貞の軍勢を迎え撃つべく、北条高時ら北条氏一門が当寺に篭もりましたが、成すすべもなく自ら火を放って自刃しました。 証左は東勝寺合戦にあります。 この時、建造物は焼失しましたが、直ちに再建されました。また、北条高時一門が滅亡したのを悼み、現在の藤沢市に新たな東勝寺が建てられました。 室町時代には関東十刹の上位に位置づけられましたが、その後は鎌倉府とともに衰退し、戦国時代には廃寺となりました。 発掘調査および現況 1975年(昭和50年)・1976年(昭和51年)および1996年(平成8年)・1997年(平成9年)に、寺跡の北側と中央の谷部分を中心として発掘調査が実施されました。 出土した陶磁器をはじめとする遺物の年代や層位学的研究法の成果(炭化物の層と熱を受けた痕跡等)から、史書に記されるとおり、元弘3年当時の実在が確証されます。 調査によって、地元の「鎌倉石」の切石を積み上げた石垣、切石敷きの坂道、岩盤を掘削してつくった排水溝、また、門跡と推定される地覆石(じぶくいし)の列や礎石建物、掘立柱建物(各1棟)など、格式を誇る仏教寺院の遺構群を比較的良好な状態で発掘したのです。 遺物では、宋・元代の獣足青磁香炉・獣足褐軸香炉・天目茶碗(中国産)、古瀬戸(尾張国産)の朽葉文の施された壺などが見つかっており、いずれも権力者に庇護された寺院の調度品にふさわしいものです。 1998年(平成10年)6月、「東勝寺跡」として国の史跡に指定されました。かつての寺域には現在も「腹切り郭」と称される曲輪状の空間があり、大正期に建立された旧跡の碑が残っています 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-11-27 ◆東勝寺合戦 東勝寺合戦(とうしょうじがっせん)は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3年、正慶2年)に相模国鎌倉(現在の鎌倉市)で行われた戦いです。 1331年(元弘元年、元徳3年)から開始された後醍醐天皇の倒幕運動である元弘の乱の最後の戦いで、鎌倉幕府は滅亡しました。 東勝寺は、第3代執権の北条泰時が退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として葛西ヶ谷(鎌倉市小町)に創建した北条氏の菩提寺です。 背景 1331年(元弘元年、元徳3年)8月、後醍醐天皇が笠置山で挙兵、これに応じて楠木正成も河内で挙兵して、元弘の乱が始まります。幕府は鎮圧の兵を上らせ、上野国の御家人新田義貞も加わりました。9月には笠置山が陥落し、後醍醐天皇は捕らえられて隠岐へ配流とされました。 1333年(元弘3年、正慶2年)、楠木勢は千早城で再挙し、幕府の大軍を相手に奮戦します。これに触発されて播磨では赤松則村(円心)が蜂起し、伊予でも反乱が起こります。 幕府はさらに北条一族名越高家と下野国の有力御家人、足利高氏に大軍を率いさせて西国に派遣します。閏2月には後醍醐天皇が隠岐を脱出して船上山に拠り、4月には高氏が篠村八幡において幕府に反旗。足利勢らは京都の六波羅探題を滅ぼし、都を制圧します。 5月、上野へ帰った義貞は生品明神において挙兵し、東山道を西進して鎌倉進撃を開始した。新田軍は一族や周辺豪族を集めて兵を増やしつつ、利根川を越えて武蔵へ進みます。鎌倉を脱出した高氏の嫡子である千寿王と合流、鎌倉街道を進む。幕府側では北条泰家らを迎撃のために向かわせますが、入間川と久米川(現東京都東村山市)での合戦で敗退し、分倍河原の戦い(現東京都府中市)でも敗れました。新田軍は鎌倉へと迫ります。 経過 各地で敗走した鎌倉勢は、鎌倉の七切通しを封鎖。新田勢は関口を本拠に、小袋坂、化粧坂、極楽寺坂の三方から攻撃することとし、義貞はそれぞれの指揮を執る将を新田一族で固めた。小袋坂は山側で鎌倉勢の執権・赤橋守時が守るのに対し新田勢は堀口貞満らが攻め、中央の化粧坂には金沢貞将に対し新田義貞、脇屋義助が率いる主力が攻める。七里ヶ浜に面する海側の極楽寺坂は大仏貞直が守り、大舘宗氏らが攻めた。戦いは膠着し、特に極楽寺坂では指揮を執る大舘宗氏が戦死するほど苦戦する(大舘氏参照)。 義貞は切通しの突破を諦めて、干潮を利用しての稲村ヶ崎から海岸線ルートでの鎌倉侵攻を試みる。(室町時代に成立した軍記物語『太平記』によれば、義貞が海神に祈願すると潮が引き、新田勢は由比ガ浜へ進入、鎌倉へ進攻できたとされる。)背後を突かれた形となった幕府軍は鎌倉市街や切通しなどで大仏貞直、大仏宣政、金沢貞将、本間山城左衛門、そして当時の執権赤橋守時(北条守時)などが戦死した。 北条高時らは東勝寺に追い詰められ自害します。 つづく |