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首都タシケントへ 到着、一旦ホテルへ 国会議事堂 アミール・ティムール広場
アミール・ティムール博物館 ウズベキスタン外務省迎賓館 プロムナードギャラリー
シャラフ・ラシドフ銅像 ウズベキスタン国立歴史博物館 ナボイ・オペラ・バレイ劇場
ヤッカサライ墓地 国立応用美術館 夕暮れの独立広場 予備調査を終わって
◆シャラフ・ラシドフ氏の銅像
この先の公園の中に、下の写真のような銅像がありました。

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-4
銅像にある字を拡大すると以下の通りです。ウズベック後、ギリシャ語あるいはロシア語のようです。

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-4
その後、鷹取さんが調べてくれたところ、シャラフ・ラシドフ氏の銅像であることがわかりました。ソ連時代のこの種のものが破壊されている中、残されていたことになります。もっぱら、現在の大統領も先に報告したように、ウズベク・ソビエト社会主義共和国大統領であったイスラム・カリモフが独立以来その職にあります。
◆シャラフ・ラシドフ
シャラフ・ラシドヴィチ・ラシドフ(ロシア語: Шараф Рашидович
Рашидов, 1917年11月6日 - 1983年10月31日)は、ウズベク・ソビエト社会主義共和国の政治家、ソ連共産党員。ジザフ出身。
1941年、サマルカンド国立大学、1948年、ソ連共産党中央委員会附属高等党学校(通信教育)を卒業。
1941年 - サマルカンドの「レーニン・ユールイ」紙の責任書記、副編集長、編集長
1941年8月 - ソ連軍における党業務
1943年 - サマルカンド紙編集長
1944年~1947年 - ウズベキスタン共産党サマルカンド州委員会書記
1947年~1949年 - 「キジル・ウズベキスタン」紙編集長
1949年~1950年 - ウズベキスタン作家連盟理事長
1950年~1959年 - ウズベク・ソビエト社会主義共和国最高会議幹部会議長
1959年 - ウズベキスタン共産党中央委員会第一書記
1961年からソ連共産党中央委員会政治局員候補。第3期~第10期ソ連最高会議代議員。
社会主義労働英雄(1974年、1977年)。レーニン賞を受賞。

出典:Wikipedia |
◆巨大な建築物 = ウズベキスタンの行政省庁ビル
なお、このあたりから西の独立広場(Mustаqillik mаydоni)を見ると、これまたものすごく横長の立派な白い建築物が見えました。

出典:グーグルアース
帰国後、あるガイドブックを調べて見ると、コンサートホールとありました。コンサートホールにしてはあまりにも巨大すぎますが、これもソ連時代の建築物かも知れません。
さらに調べてゆくと、独立広場にあるこの巨大な建築物は、ウズベキスタンの行政省庁のビルであることが分かりました。

タシケントにあった巨大な建築物。行政省庁ビル
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-4

タシケントにあった巨大な建築物。行政省庁ビル
出典:Wikipedia
◆ウズベキスタン国立歴史博物館
途中、ナボイ劇場近くに以下の写真の建物を見つけました。これはウズベキスタンの国立歴史博物館でした。時間があれば、ぜひ、入館してみたかった博物館です。

ウズベキスタンの国立歴史博物館
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-4
 ウズベキスタンの国立歴史博物館
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-4
 ウズベキスタンの国立歴史博物館 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-4
◆開館時間:
開館時間は午前10時から午後5時まで、休館日は月曜日となっている。 |
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◆ウズベキスタン国立歴史博物館
ウズベキスタン国立歴史博物館 (英語: State Museum of History of Uzbekistan、ウズベク語:
O'zbekiston tarixi davlat muzeyi、ロシア語: Государственный
музей истории Узбекистана、旧称:トルキスタン国立博物館)
はウズベキスタンのタシュケントにある博物館であり、中央アジア最古の博物館です。
ウズベキスタン国立博物館はタシュケントにロシア帝国のトルキスタン総督府が置かれていた1876年にトルキスタン民俗学博物館として設立された後、1919年2月にトルキスタン国立博物館と改称されました。
1970年に博物館の場所を移転、ロシアにあるレーニン中央博物館のタシュケント分館として改装されました。1991年のウズベキスタン独立後に、現在の名称となっています。
ウズベキスタン国立博物館には考古学、歴史学、民俗学的な中央アジア文明の事物や歴史の流れが、石器時代から時代順に展示されている他、かつて中央アジアで使用されていた貨幣も展示されています。
トルキスタン民俗学博物館時代の1900年と1906年には、パリとミラノでそれぞれ行われた万国博覧会に展示物を提供しています。
また、特筆すべき展示物として、テルメズのファヤズ・テパ遺跡から見つかった紀元後2~3世紀のものと考えられる三尊仏が移管、展示されています。
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そしてついに、探していたナボイ劇場です。
◆ナボイ・オペラ・バレイ劇場
その後、やっとのことで、国立歴史博物館とウズベキスタン航空本社ビルのすぐ隣に、日本兵が強制労働で建築に駆り出されたというナボイ・オペラ・バレイ劇場を発見しました。
何と、劇場は思った以上に大きく、立派などっしりとした建築物です。ただ、改修で劇場の中は見られませんでしたが、70年前、ソ連の捕虜となった日本人が強制労働で関わったとされるこのナボイ劇場がかくも重厚で装飾に満ちた建築物にで会え感激しました。

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-4
劇場は現役で使われていますが、弦境州工事中でした。

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-4
 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-4

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-4
下はトリップアドバイザーから情報提供されましたナボイ劇場の内部の貴重な写真です。

タシュケント・ナボイ劇場の内部の写真 (トリップアドバイザー提供)
◆ナヴォイ劇場
アレクセイ・シュチューセフが設計して1939~1942、1944~1947年に建設され、1947年11月にアリシェル・ナヴァーイー生誕500周年を記念して初公開されています。
劇場の収容観客数は1400人で、舞台の広さは540平方メートルあります。
第二次世界大戦で、ソ連の捕虜になった日本人に強制労働として、劇場の建設が課せられました。長時間の労働に加え、食事には腐ったものが出てくるなど劣悪な環境でした。実際に作業に関わった500人のうち、79人もの日本人が亡くなっています。
しかし、強制労働にもかかわらず『日本に必ず帰って、もう一度桜を見よう』の合言葉のもと、妥協のない姿勢で建設に携わり、3年かかるであろうこの建設を僅か2年で完成。細部の彫刻にまでこだわるなど完璧な出来であったとされています。

戦後シベリア抑留を受けた日本人捕虜が工事をしたとされる
バレエ・オペラ劇場のナヴォイ劇場
なお、サマルカンド国立外国語大学で教授を務めた胡口靖夫は、ナヴォイ劇場の建設に従事した日本人の「私らが昭和20年11月上旬ころに着いたときにはもう建物はほとんどできていました。これは間違いありません」という証言などから、日本人捕虜が建設に参加した時には、基礎はもちろん建物本体はほとんどできていたことになります。
「日本人捕虜が行った作業の中心は、左官・彫刻・寄せ木作りの床張り・大理石の床張り・電気工事などの内外装工事の『仕上げ』であった」と結論付けており、「勤勉に働いた日本人が基礎からレンガを積み上げて“建設”した」とされるのは「伝説」だとして、それが検証なしに広められていることを批判しています。
出典:Wikipedia
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以下、今回は時間の関係で行けませんでしたが、ウズベキスタン大使館のパンフレットにありましたみどころ所を情報提供しておきます。
◆ヤッカサライ墓地
ウズベキスタンの首都タシュケントに日本人抑留者の墓地があり、この墓地がタシケント日本人墓地と呼ばれています。
場所は市の南東地区、ヤッカサライ(Yakkasaray(en:Yakkasaray))通りに位置する公営墓地の一角に、ドイツ人墓地が隣接しています。
太平洋戦争終戦直後、中国東北地方(満洲)や樺太に駐留していた日本兵約57.5万人が、武装解除投降後、捕虜としてソヴィエト連邦により強制的にソビエト連邦内のシベリアや中央アジア地域、遠くはコーカサス地方、ウクライナ等へ連行され、強制的に労働を強いられました。
中央アジア地域のウズベキスタンにも約2万3千名の日本軍捕虜が移送され、ウズベキスタン各地で建設事業に従事する長期的な抑留生活を送り、日ソ間の国交が回復(日ソ共同宣言)され、帰国する1956年までの間に884名(2010年1月現在)が亡くなっています。
このヤッカサライにある日本人墓地は、タシケント地区及びウズベキスタン各地で亡くなった抑留日本人共同墓地です。

ウズベキスタンの首都タシュケントにある日本人抑留者の墓地 出典:Wikipedia
◆ウズベキスタン国立応用美術館
1927年にタシュケントにおいてウズベク・ソビエト社会主義共和国国内の芸術家が集まり展覧会が開催されました。以降、この展覧会は定期的に開催されるようになり、「ウズベキスタン国立展覧会」として開催されるようになりました。
その後、展覧会で展示される対象は手作りの刺繍工芸、木彫りの彫刻、絨毯、宝石など応用美術の様々な分野へと拡大されてゆきました。
この展覧会で展示された美術品を集め、ウズベキスタン工芸美術館が1937年7月に設立されました。
1960年、ウズベキスタン工芸美術館はウズベキスタン応用美術常設展示館へと改名されました。
1997年、美術館はウズベキスタン共和国文化省の管轄下に入り、ウズベキスタン国立応用美術館へと改名されました。
館内では、ドゥッピ (Do'ppi) などの伝統衣装の帽子、ネックレスや髪飾りなどの貴金属製品などが展示されています。
館内は伝統工芸を展示している区画、20世紀に制作された絨毯や帽子などの伝統衣装を展示している区画、現代美術との融合により新たな創作を行なっている作品群のある区画の3つの区画に分かれています。
館内スペースの関係から7,000点以上の美術品を展示することはできないものの、職人の製作のもと収集品は増加しています。

ウズベキスタン国立応用美術館 出典:Wikipedia
◆タシケントのその他の観光資源
タシケントは、1917年のロシア革命で一旦古い町並みが破壊され、さらに1966年のタシュケント地震で古い建物はほとんどが破壊されたため歴史ある建物は数少なくなっています。しかし、タシュケントはソビエト連邦時代に建設されたモニュメントなどの像が多く街に残っています。
ウズベキスタンの首都、および中央アジア最大の都市ということもあり、観光施設も多くあります。タシュケントタワーは中央アジアで最も高い375メートルの建築物です。
クケルダシュ・マドラサ、ブハラ・ハン国のアブドゥッラーフ2世 (1557-1598)
の治世に建設されたマドラサもあります。
現在マーワラーアンナフルイスラム会により修復作業が行われている。内部を博物館へと作り変える議論も行われていますが、2013年時点ではモスクとして使用されています。
チョルスー・バザール、クケルダシュ・マドラサの付近に位置しています。巨大な屋外バザールはタシュケント旧市街の中心的な役割を担っている。想像しうる全ての物が販売されているとされています。
テリャシャヤフ・モスク (ハスト・イマーム・モスク)には、世界最古のクルアーン
(イスラム教の教典) とされるウスマーン写本が置かれています。
殺害された第3代正統カリフ、ウスマーンの血痕が付着しているとされています。ティムールによりサマルカンドへと持ち帰られたと考えられています。トルキスタン総督府時代に一旦サンクトペテルブルクへと持ち去られたものの、1924年に再びウズベキスタンに返還されています。
ユーヌス・ハーン廟群、15世紀に建設された3つの霊廟の集合体。19世紀に修復作業が行われています。最大の霊廟はムガル帝国の創始者バーブルの祖父であった
ユーヌス・ハーンの墓です。
アリシェル・ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場。モスクワにあるレーニン廟と同じ設計者であるアレクセイ・シューセフにより設計された。第二次世界大戦の際、シベリア抑留により日本の軍人が多数タシュケントへと連行され、この建物の礎を築いています。
アミール・ティムール広場に設置されていたロシア正教会は1898年に建設されたが、2009年に取り壊されました。また、タシュケント郊外のチャルヴァク湖は行楽地として有名で、マリンスポーツ、ウィンタースポーツを楽しむことができまし。
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上記のように、ナボイ劇場を視察した時点で、すでに夕闇が迫っていました。
夕暮れの独立広場から見た馬に乗ったティムール像越しに見た国会議事堂は今まで世界の都市で見たことがないほど夢のような景観です。

お月様も参加し、大変幻想的な写真となりました。
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-3-4
この先の公園の中に、下の写真のような銅像がありました。

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-4
銅像にある字を拡大すると以下の通りです。ウズベック後、ギリシャ語あるいはロシア語のようです。

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-4
その後、鷹取さんが調べてくれたところ、シャラフ・ラシドフ氏の銅像であることがわかりました。ソ連時代のこの種のものが破壊されている中、残されていたことになります。もっぱら、現在の大統領も先に報告したように、ウズベク・ソビエト社会主義共和国大統領であったイスラム・カリモフが独立以来その職にあります。
◆シャラフ・ラシドフ
シャラフ・ラシドヴィチ・ラシドフ(ロシア語: Шараф Рашидович
Рашидов, 1917年11月6日 - 1983年10月31日)は、ウズベク・ソビエト社会主義共和国の政治家、ソ連共産党員。ジザフ出身。
1941年、サマルカンド国立大学、1948年、ソ連共産党中央委員会附属高等党学校(通信教育)を卒業。
1941年 - サマルカンドの「レーニン・ユールイ」紙の責任書記、副編集長、編集長
1941年8月 - ソ連軍における党業務
1943年 - サマルカンド紙編集長
1944年~1947年 - ウズベキスタン共産党サマルカンド州委員会書記
1947年~1949年 - 「キジル・ウズベキスタン」紙編集長
1949年~1950年 - ウズベキスタン作家連盟理事長
1950年~1959年 - ウズベク・ソビエト社会主義共和国最高会議幹部会議長
1959年 - ウズベキスタン共産党中央委員会第一書記
1961年からソ連共産党中央委員会政治局員候補。第3期~第10期ソ連最高会議代議員。
社会主義労働英雄(1974年、1977年)。レーニン賞を受賞。

出典:Wikipedia |
◆巨大な建築物 = ウズベキスタンの行政省庁ビル
なお、このあたりから西の独立広場(Mustаqillik mаydоni)を見ると、これまたものすごく横長の立派な白い建築物が見えました。

出典:グーグルアース
帰国後、あるガイドブックを調べて見ると、コンサートホールとありました。コンサートホールにしてはあまりにも巨大すぎますが、これもソ連時代の建築物かも知れません。
さらに調べてゆくと、独立広場にあるこの巨大な建築物は、ウズベキスタンの行政省庁のビルであることが分かりました。

タシケントにあった巨大な建築物。行政省庁ビル
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-4

タシケントにあった巨大な建築物。行政省庁ビル
出典:Wikipedia
◆ウズベキスタン国立歴史博物館
途中、ナボイ劇場近くに以下の写真の建物を見つけました。これはウズベキスタンの国立歴史博物館でした。時間があれば、ぜひ、入館してみたかった博物館です。

ウズベキスタンの国立歴史博物館
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-4
 ウズベキスタンの国立歴史博物館
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-4
 ウズベキスタンの国立歴史博物館 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-4
◆開館時間:
開館時間は午前10時から午後5時まで、休館日は月曜日となっている。 |
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◆ウズベキスタン国立歴史博物館
ウズベキスタン国立歴史博物館 (英語: State Museum of History of Uzbekistan、ウズベク語:
O'zbekiston tarixi davlat muzeyi、ロシア語: Государственный
музей истории Узбекистана、旧称:トルキスタン国立博物館)
はウズベキスタンのタシュケントにある博物館であり、中央アジア最古の博物館です。
ウズベキスタン国立博物館はタシュケントにロシア帝国のトルキスタン総督府が置かれていた1876年にトルキスタン民俗学博物館として設立された後、1919年2月にトルキスタン国立博物館と改称されました。
1970年に博物館の場所を移転、ロシアにあるレーニン中央博物館のタシュケント分館として改装されました。1991年のウズベキスタン独立後に、現在の名称となっています。
ウズベキスタン国立博物館には考古学、歴史学、民俗学的な中央アジア文明の事物や歴史の流れが、石器時代から時代順に展示されている他、かつて中央アジアで使用されていた貨幣も展示されています。
トルキスタン民俗学博物館時代の1900年と1906年には、パリとミラノでそれぞれ行われた万国博覧会に展示物を提供しています。
また、特筆すべき展示物として、テルメズのファヤズ・テパ遺跡から見つかった紀元後2~3世紀のものと考えられる三尊仏が移管、展示されています。
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そしてついに、探していたナボイ劇場です。
◆ナボイ・オペラ・バレイ劇場
その後、やっとのことで、国立歴史博物館とウズベキスタン航空本社ビルのすぐ隣に、日本兵が強制労働で建築に駆り出されたというナボイ・オペラ・バレイ劇場を発見しました。
何と、劇場は思った以上に大きく、立派などっしりとした建築物です。ただ、改修で劇場の中は見られませんでしたが、70年前、ソ連の捕虜となった日本人が強制労働で関わったとされるこのナボイ劇場がかくも重厚で装飾に満ちた建築物にで会え感激しました。

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-4
劇場は現役で使われていますが、弦境州工事中でした。

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-4
 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-4

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-4
下はトリップアドバイザーから情報提供されましたナボイ劇場の内部の貴重な写真です。

タシュケント・ナボイ劇場の内部の写真 (トリップアドバイザー提供)
◆ナヴォイ劇場
アレクセイ・シュチューセフが設計して1939~1942、1944~1947年に建設され、1947年11月にアリシェル・ナヴァーイー生誕500周年を記念して初公開されています。
劇場の収容観客数は1400人で、舞台の広さは540平方メートルあります。
第二次世界大戦で、ソ連の捕虜になった日本人に強制労働として、劇場の建設が課せられました。長時間の労働に加え、食事には腐ったものが出てくるなど劣悪な環境でした。実際に作業に関わった500人のうち、79人もの日本人が亡くなっています。
しかし、強制労働にもかかわらず『日本に必ず帰って、もう一度桜を見よう』の合言葉のもと、妥協のない姿勢で建設に携わり、3年かかるであろうこの建設を僅か2年で完成。細部の彫刻にまでこだわるなど完璧な出来であったとされています。

戦後シベリア抑留を受けた日本人捕虜が工事をしたとされる
バレエ・オペラ劇場のナヴォイ劇場
なお、サマルカンド国立外国語大学で教授を務めた胡口靖夫は、ナヴォイ劇場の建設に従事した日本人の「私らが昭和20年11月上旬ころに着いたときにはもう建物はほとんどできていました。これは間違いありません」という証言などから、日本人捕虜が建設に参加した時には、基礎はもちろん建物本体はほとんどできていたことになります。
「日本人捕虜が行った作業の中心は、左官・彫刻・寄せ木作りの床張り・大理石の床張り・電気工事などの内外装工事の『仕上げ』であった」と結論付けており、「勤勉に働いた日本人が基礎からレンガを積み上げて“建設”した」とされるのは「伝説」だとして、それが検証なしに広められていることを批判しています。
出典:Wikipedia
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以下、今回は時間の関係で行けませんでしたが、ウズベキスタン大使館のパンフレットにありましたみどころ所を情報提供しておきます。
◆ヤッカサライ墓地
ウズベキスタンの首都タシュケントに日本人抑留者の墓地があり、この墓地がタシケント日本人墓地と呼ばれています。
場所は市の南東地区、ヤッカサライ(Yakkasaray(en:Yakkasaray))通りに位置する公営墓地の一角に、ドイツ人墓地が隣接しています。
太平洋戦争終戦直後、中国東北地方(満洲)や樺太に駐留していた日本兵約57.5万人が、武装解除投降後、捕虜としてソヴィエト連邦により強制的にソビエト連邦内のシベリアや中央アジア地域、遠くはコーカサス地方、ウクライナ等へ連行され、強制的に労働を強いられました。
中央アジア地域のウズベキスタンにも約2万3千名の日本軍捕虜が移送され、ウズベキスタン各地で建設事業に従事する長期的な抑留生活を送り、日ソ間の国交が回復(日ソ共同宣言)され、帰国する1956年までの間に884名(2010年1月現在)が亡くなっています。
このヤッカサライにある日本人墓地は、タシケント地区及びウズベキスタン各地で亡くなった抑留日本人共同墓地です。

ウズベキスタンの首都タシュケントにある日本人抑留者の墓地 出典:Wikipedia
◆ウズベキスタン国立応用美術館
1927年にタシュケントにおいてウズベク・ソビエト社会主義共和国国内の芸術家が集まり展覧会が開催されました。以降、この展覧会は定期的に開催されるようになり、「ウズベキスタン国立展覧会」として開催されるようになりました。
その後、展覧会で展示される対象は手作りの刺繍工芸、木彫りの彫刻、絨毯、宝石など応用美術の様々な分野へと拡大されてゆきました。
この展覧会で展示された美術品を集め、ウズベキスタン工芸美術館が1937年7月に設立されました。
1960年、ウズベキスタン工芸美術館はウズベキスタン応用美術常設展示館へと改名されました。
1997年、美術館はウズベキスタン共和国文化省の管轄下に入り、ウズベキスタン国立応用美術館へと改名されました。
館内では、ドゥッピ (Do'ppi) などの伝統衣装の帽子、ネックレスや髪飾りなどの貴金属製品などが展示されています。
館内は伝統工芸を展示している区画、20世紀に制作された絨毯や帽子などの伝統衣装を展示している区画、現代美術との融合により新たな創作を行なっている作品群のある区画の3つの区画に分かれています。
館内スペースの関係から7,000点以上の美術品を展示することはできないものの、職人の製作のもと収集品は増加しています。

ウズベキスタン国立応用美術館 出典:Wikipedia
◆タシケントのその他の観光資源
タシケントは、1917年のロシア革命で一旦古い町並みが破壊され、さらに1966年のタシュケント地震で古い建物はほとんどが破壊されたため歴史ある建物は数少なくなっています。しかし、タシュケントはソビエト連邦時代に建設されたモニュメントなどの像が多く街に残っています。
ウズベキスタンの首都、および中央アジア最大の都市ということもあり、観光施設も多くあります。タシュケントタワーは中央アジアで最も高い375メートルの建築物です。
クケルダシュ・マドラサ、ブハラ・ハン国のアブドゥッラーフ2世 (1557-1598)
の治世に建設されたマドラサもあります。
現在マーワラーアンナフルイスラム会により修復作業が行われている。内部を博物館へと作り変える議論も行われていますが、2013年時点ではモスクとして使用されています。
チョルスー・バザール、クケルダシュ・マドラサの付近に位置しています。巨大な屋外バザールはタシュケント旧市街の中心的な役割を担っている。想像しうる全ての物が販売されているとされています。
テリャシャヤフ・モスク (ハスト・イマーム・モスク)には、世界最古のクルアーン
(イスラム教の教典) とされるウスマーン写本が置かれています。
殺害された第3代正統カリフ、ウスマーンの血痕が付着しているとされています。ティムールによりサマルカンドへと持ち帰られたと考えられています。トルキスタン総督府時代に一旦サンクトペテルブルクへと持ち去られたものの、1924年に再びウズベキスタンに返還されています。
ユーヌス・ハーン廟群、15世紀に建設された3つの霊廟の集合体。19世紀に修復作業が行われています。最大の霊廟はムガル帝国の創始者バーブルの祖父であった
ユーヌス・ハーンの墓です。
アリシェル・ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場。モスクワにあるレーニン廟と同じ設計者であるアレクセイ・シューセフにより設計された。第二次世界大戦の際、シベリア抑留により日本の軍人が多数タシュケントへと連行され、この建物の礎を築いています。
アミール・ティムール広場に設置されていたロシア正教会は1898年に建設されたが、2009年に取り壊されました。また、タシュケント郊外のチャルヴァク湖は行楽地として有名で、マリンスポーツ、ウィンタースポーツを楽しむことができまし。
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上記のように、ナボイ劇場を視察した時点で、すでに夕闇が迫っていました。
夕暮れの独立広場から見た馬に乗ったティムール像越しに見た国会議事堂は今まで世界の都市で見たことがないほど夢のような景観です。

お月様も参加し、大変幻想的な写真となりました。
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-3-4
つづく |