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   シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

夕暮れの独立広場
 
青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2015年3月9日
独立系メディア E-wave Tokyo
 無断転載禁
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首都タシケントへ  到着、一旦ホテルへ  国会議事堂  アミール・ティムール広場
アミール・ティムール博物館  ウズベキスタン外務省迎賓館  
プロムナードギャラリー
シャラフ・ラシドフ
 ウズベキスタン国立歴史博物館  ナボイ・オペラ・バレイ劇場
ヤッカサライ墓  国立応用美術館  夕暮れの独立広場  予備調査を終わって

夕暮れの独立広場


タシケントのその他の観光資源

 タシケントは、1917年のロシア革命で一旦古い町並みが破壊され、さらに1966年のタシュケント地震で古い建物はほとんどが破壊されたため歴史ある建物は数少なくなっています。しかし、タシュケントはソビエト連邦時代に建設されたモニュメントなどの像が多く街に残っています。

 ウズベキスタンの首都、および中央アジア最大の都市ということもあり、観光施設も多くあります。タシュケントタワーは中央アジアで最も高い375メートルの建築物です。

 クケルダシュ・マドラサ、ブハラ・ハン国のアブドゥッラーフ2世 (1557-1598) の治世に建設されたマドラサもあります。

 現在マーワラーアンナフルイスラム会により修復作業が行われている。内部を博物館へと作り変える議論も行われていますが、2013年時点ではモスクとして使用されています。

 チョルスー・バザール、クケルダシュ・マドラサの付近に位置しています。巨大な屋外バザールはタシュケント旧市街の中心的な役割を担っている。想像しうる全ての物が販売されているとされています。

 テリャシャヤフ・モスク (ハスト・イマーム・モスク)には、世界最古のクルアーン (イスラム教の教典) とされるウスマーン写本が置かれています。

 殺害された第3代正統カリフ、ウスマーンの血痕が付着しているとされています。ティムールによりサマルカンドへと持ち帰られたと考えられています。トルキスタン総督府時代に一旦サンクトペテルブルクへと持ち去られたものの、1924年に再びウズベキスタンに返還されています。

 ユーヌス・ハーン廟群、15世紀に建設された3つの霊廟の集合体。19世紀に修復作業が行われています。最大の霊廟はムガル帝国の創始者バーブルの祖父であった ユーヌス・ハーンの墓です。

 アリシェル・ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場。モスクワにあるレーニン廟と同じ設計者であるアレクセイ・シューセフにより設計された。第二次世界大戦の際、シベリア抑留により日本の軍人が多数タシュケントへと連行され、この建物の礎を築いています。

アミール・ティムール広場に設置されていたロシア正教会は1898年に建設されたが、2009年に取り壊されました。また、タシュケント郊外のチャルヴァク湖は行楽地として有名で、マリンスポーツ、ウィンタースポーツを楽しむことができまし。


 上記のように、ナボイ劇場を視察した時点で、すでに夕闇が迫っていました。

 夕暮れの独立広場から見た馬に乗ったティムール像越しに見た国会議事堂は今まで世界の都市で見たことがないほど夢のような景観です。


お月様も参加し、大変幻想的な写真となりました。
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-4

 この先の公園の中に、下の写真のような銅像がありました。
 

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4

  銅像にある字を拡大すると以下の通りです。ウズベック後、ギリシャ語あるいはロシア語のようです。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4

 その後、鷹取さんが調べてくれたところ、シャラフ・ラシドフ氏の銅像であることがわかりました。ソ連時代のこの種のものが破壊されている中、残されていたことになります。もっぱら、現在の大統領も先に報告したように、ウズベク・ソビエト社会主義共和国大統領であったイスラム・カリモフが独立以来その職にあります。

シャラフ・ラシドフ

 シャラフ・ラシドヴィチ・ラシドフ(ロシア語: Шараф Рашидович Рашидов, 1917年11月6日 - 1983年10月31日)は、ウズベク・ソビエト社会主義共和国の政治家、ソ連共産党員。ジザフ出身。

1941年、サマルカンド国立大学、1948年、ソ連共産党中央委員会附属高等党学校(通信教育)を卒業。
1941年 - サマルカンドの「レーニン・ユールイ」紙の責任書記、副編集長、編集長
1941年8月 - ソ連軍における党業務
1943年 - サマルカンド紙編集長
1944年~1947年 - ウズベキスタン共産党サマルカンド州委員会書記
1947年~1949年 - 「キジル・ウズベキスタン」紙編集長
1949年~1950年 - ウズベキスタン作家連盟理事長
1950年~1959年 - ウズベク・ソビエト社会主義共和国最高会議幹部会議長
1959年 - ウズベキスタン共産党中央委員会第一書記
1961年からソ連共産党中央委員会政治局員候補。第3期~第10期ソ連最高会議代議員。
社会主義労働英雄(1974年、1977年)。レーニン賞を受賞。




出典:Wikipedia



◆ヤッカサライ墓地

 ウズベキスタンの首都タシュケントに日本人抑留者の墓地があり、この墓地がタシケント日本人墓地と呼ばれています。

 場所は市の南東地区、ヤッカサライ(Yakkasaray(en:Yakkasaray))通りに位置する公営墓地の一角に、ドイツ人墓地が隣接しています。

 太平洋戦争終戦直後、中国東北地方(満洲)や樺太に駐留していた日本兵約57.5万人が、武装解除投降後、捕虜としてソヴィエト連邦により強制的にソビエト連邦内のシベリアや中央アジア地域、遠くはコーカサス地方、ウクライナ等へ連行され、強制的に労働を強いられました。

 中央アジア地域のウズベキスタンにも約2万3千名の日本軍捕虜が移送され、ウズベキスタン各地で建設事業に従事する長期的な抑留生活を送り、日ソ間の国交が回復(日ソ共同宣言)され、帰国する1956年までの間に884名(2010年1月現在)が亡くなっています。

 このヤッカサライにある日本人墓地は、タシケント地区及びウズベキスタン各地で亡くなった抑留日本人共同墓地です。


ウズベキスタンの首都タシュケントにある日本人抑留者の墓地      出典:Wikipedia


ウズベキスタン国立応用美術館

 1927年にタシュケントにおいてウズベク・ソビエト社会主義共和国国内の芸術家が集まり展覧会が開催されました。以降、この展覧会は定期的に開催されるようになり、「ウズベキスタン国立展覧会」として開催されるようになりました。

 その後、展覧会で展示される対象は手作りの刺繍工芸、木彫りの彫刻、絨毯、宝石など応用美術の様々な分野へと拡大されてゆきました。

 この展覧会で展示された美術品を集め、ウズベキスタン工芸美術館が1937年7月に設立されました。

 1960年、ウズベキスタン工芸美術館はウズベキスタン応用美術常設展示館へと改名されました。

 1997年、美術館はウズベキスタン共和国文化省の管轄下に入り、ウズベキスタン国立応用美術館へと改名されました。

 館内では、ドゥッピ (Do'ppi) などの伝統衣装の帽子、ネックレスや髪飾りなどの貴金属製品などが展示されています。

 館内は伝統工芸を展示している区画、20世紀に制作された絨毯や帽子などの伝統衣装を展示している区画、現代美術との融合により新たな創作を行なっている作品群のある区画の3つの区画に分かれています。

 館内スペースの関係から7,000点以上の美術品を展示することはできないものの、職人の製作のもと収集品は増加しています。


ウズベキスタン国立応用美術館        出典:Wikipedia


タシケントのその他の観光資源

 タシケントは、1917年のロシア革命で一旦古い町並みが破壊され、さらに1966年のタシュケント地震で古い建物はほとんどが破壊されたため歴史ある建物は数少なくなっています。しかし、タシュケントはソビエト連邦時代に建設されたモニュメントなどの像が多く街に残っています。

 ウズベキスタンの首都、および中央アジア最大の都市ということもあり、観光施設も多くあります。タシュケントタワーは中央アジアで最も高い375メートルの建築物です。

 クケルダシュ・マドラサ、ブハラ・ハン国のアブドゥッラーフ2世 (1557-1598) の治世に建設されたマドラサもあります。

 現在マーワラーアンナフルイスラム会により修復作業が行われている。内部を博物館へと作り変える議論も行われていますが、2013年時点ではモスクとして使用されています。

 チョルスー・バザール、クケルダシュ・マドラサの付近に位置しています。巨大な屋外バザールはタシュケント旧市街の中心的な役割を担っている。想像しうる全ての物が販売されているとされています。

 テリャシャヤフ・モスク (ハスト・イマーム・モスク)には、世界最古のクルアーン (イスラム教の教典) とされるウスマーン写本が置かれています。

 殺害された第3代正統カリフ、ウスマーンの血痕が付着しているとされています。ティムールによりサマルカンドへと持ち帰られたと考えられています。トルキスタン総督府時代に一旦サンクトペテルブルクへと持ち去られたものの、1924年に再びウズベキスタンに返還されています。

 ユーヌス・ハーン廟群、15世紀に建設された3つの霊廟の集合体。19世紀に修復作業が行われています。最大の霊廟はムガル帝国の創始者バーブルの祖父であった ユーヌス・ハーンの墓です。

 アリシェル・ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場。モスクワにあるレーニン廟と同じ設計者であるアレクセイ・シューセフにより設計された。第二次世界大戦の際、シベリア抑留により日本の軍人が多数タシュケントへと連行され、この建物の礎を築いています。

アミール・ティムール広場に設置されていたロシア正教会は1898年に建設されたが、2009年に取り壊されました。また、タシュケント郊外のチャルヴァク湖は行楽地として有名で、マリンスポーツ、ウィンタースポーツを楽しむことができまし。


 上記のように、ナボイ劇場を視察した時点で、すでに夕闇が迫っていました。

 夕暮れの独立広場から見た馬に乗ったティムール像越しに見た国会議事堂は今まで世界の都市で見たことがないほど夢のような景観です。


お月様も参加し、大変幻想的な写真となりました。
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-4


つづく