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翌朝、日曜日、午前10時にホテルのフロントに萩・福栄水と命を守る会の堀副会長と津田事務局長が来られ、市内視察とあいなった。 翌朝、ホテルで和食の朝食をすまし、午前10時に、堀さん、津田さんと待ち合わせ、市内視察にくり出した。 ■世界遺産暫定一覧表記資産 <萩反射炉> 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 ホテルから南で昨日、昼食をとった小さなフレンチレストランから山陰本線側に南下したところに、<萩・反射炉>がある。 現在、萩など九州・山口の6県11市では、歴史あるいは文化遺産を世界遺産に登録する動きがある。2008年12月に<萩反射炉>が世界遺産判定一覧表に記載された。萩からは、この<反射炉>に加え、<造船所>、<松下村塾>の3つが世界遺産の文化遺産の登録候補とされている。 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 下は反射炉がある地点から萩のまちをみたところである。 反射炉は、幕末期に萩藩が鉄砲鋳造などを目的に試験炉として構築したという見方が有力である。反射炉は焚き口で熱せられた熱と天井、壁の熱反射を利用して原料を溶解する炉を意味する。 この反射炉は幕末に幕府はじめ萩以外に佐賀藩、薩摩藩、水戸藩などで開発されたとされている。現在に残っているのは、萩藩と幕府直轄の静岡県韮山のみであり、産業上きわめて貴重な遺産であると言える。
撮影:萩・福栄水と命を守る会副会長の堀洋太郎氏 撮影:青山貞一 Nikonc Coolpix S8 萩・反射炉の文化資産は、1858年(安政5)、兵器製造等を目的に萩藩が築造した製鉄所の跡を意味する。 現実には先鞭を付けていた佐賀藩の反射炉技術を見習うべく萩藩から人材を佐賀藩に派遣するが、技術伝授(=技術移転)は拒否された。その結果、萩藩の反射炉は技術面で未熟となり、安政3年に創業を開始したものの結果的に使用されることはなかった。 撮影:青山貞一 Nikonc Coolpix S8 反射炉は玄武岩と煉瓦で築かれており、基底部分は前面5.45m、側面3.8mの長方形となっている。煙突の上部にいくにつれ次第に断面積は小さくなっている。先端部はニつに分かれており2本の煙突となっている。高さは約11.5mである。 撮影:青山貞一 Nikonc Coolpix S8 下の写真は、萩の反射炉の煙突を中心とした遺跡である。高さは、約11.5mある。 萩反射炉 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 下は、反射炉の地上部拡大写真。 萩反射炉 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8
下は反射炉がある小畑地区の小高い丘から見た萩のまち。小さなお椀型の里山が多数見える。 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 ■世界遺産暫定一覧表記資産 <萩造船所跡> 下の地図は<反射炉跡>から恵美須カ鼻にある<造船所跡>への行き方。 萩・反射炉の場所から海側に10分ほど行った恵美須カ鼻に、同じく世界遺産候補の<造船所跡>がある。反射炉が鉄砲鋳造が目的であったのに対し、造船所は軍艦造船を目的であったとされる。
以下の出典は萩市資料。 恵美須ヶ鼻造船所跡は、萩藩が洋式の軍艦を建造するために築いた施設の跡地で現地には、当時の規模そのままに防波堤が残っている。 嘉永6年(1853)、ペリー来航に衝撃を受けた幕府は、諸藩の軍備・海防の強化を目的に、大船の建造を解禁する。また幕府は安政元年(1854)、萩藩に対して大船の建造を要請する。 次いで安政2年、幕府が伊豆の戸田村で洋式帆船を建造したことなどを受け、萩藩においても洋式軍艦を建造する機運が高まった。 萩藩は安政3年1月、洋式造船技術と運転技術を学ばせるため、船大工棟梁の尾崎小右衛門を伊豆と江戸へ派遣する。 尾崎らの意見に基づき、同年4月、小畑浦の恵美須ヶ鼻に軍艦製造所が設立され、12月、萩藩で最初の洋式軍艦となる丙辰丸が進水した。丙辰丸は海軍の練習艦として使用され、また大坂(大阪)へ国産物を運ぶなどに活躍したという。 出典:「丙辰丸製造沙汰控」(山口県文書館蔵) 「丙辰丸」は全長約25m、排水量47tの木造帆船です。艦種としては スクーナーまたは君沢型と呼ばれる船で、2本のマスト(帆柱)に対し、 帆を縦に3枚張るのが特徴。この船は、建造された安政3年(18566) の干支をとって「丙辰丸」と命名されました。翌年2月には、藩主毛利敬 親の観覧のもと、試運転が行われた。 出典:小川亜弥子『幕末期長州藩洋学史の研究』(思文閣出版、1998年) その後、萩藩は更に技術者を長崎に派遣してオランダ人から知識を習得させ、万延元年(1860)に2隻目となる庚申丸を建造した。 なお庚申丸の建造にあたっては、萩市紫福にある大板山たたら製鉄遺跡(山口県指定史跡)の鉄が使用された。庚申丸は海軍の練習艦として使用された後、文久3年(1863)に下関で外国船と放火を交え、撃沈された。 つづく |