ここで昼食の時間となったが、東光寺の次に私達が向かったのは、東光寺がある椿東・里山の麓にある松陰神社と松下村塾である。
松陰神社は、江戸時代末(幕末)の思想家・教育者である吉田松陰を祭神とする神社である。松陰の墓所がある東京都世田谷区と、松陰の生誕地である山口県萩市にある。どちらも学問の神として崇敬を受けている。
一言で言えば、思想家・教育者である吉田松陰が「神様」となって祭神されているわけだ。
萩市 (トリップアドバイザー提供)
松陰神社の座地には、かつて長州藩主の別邸があった。
先に松蔭刑死のところで述べたように、松陰が安政の大獄で刑死した4年後の文久3年(1863年)、高杉晋作など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が萩市椿東の地に改葬された。
明治15年(1882年)11月21日、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。現在の社殿は昭和2年から3年にかけて造営されたものである。
松陰の50年祭に際して寄進された26基の燈籠には伊藤博文、木戸孝正、山縣有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨、青木周蔵などの名前が刻まれている。
松下村塾を模造した建物、頼三樹三郎、広沢真臣らの墓もある。また、桂太郎の墓所も近くにある。松陰らが眠る墓域は幕末時代、徳川勢により一度破壊されたが、慶応4年(明治元年)、木戸孝允がこれを修復整備した。
墓域には現在も木戸が寄進した鳥居(上の写真参照)が残っている。 敷地に隣接する形で桂太郎の墓もあるが、案内が不十分なこともあり、参拝者は少ない。桂自身の遺言により、この地に埋葬された。
下の写真は萩の松陰神社。
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8
松陰神社と松下村塾では、昨日の私の講演会に参加されていた上田さんがガイドボランティアとして説明をしてくれた。
松下村塾を背景に。左から堀氏、筆者、上田氏(ガイドをしてくれました)
撮影:津田和夫氏
松下村塾は、江戸後期の幕末に長州藩士の吉田松陰が講義した私塾である。長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に、松陰の叔父である玉木文之進が1842年(天保13年)に設立し松陰もその叔父に学んでいる。
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8
●松下村塾の歴史
吉田松陰は1855年(安政2年)に、実家である杉家に蟄居することになり、杉家の母屋を増築して塾を主宰した。1858年(安政5年)に藩の許可を得るが、松陰が安政の大獄で刑死されたため、わずか3年で廃止された。
萩の藩校明倫館の塾頭を務めた松陰が主宰し、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れた。明倫館は士分と認められた者しか入学できず、町・農民はもちろん、武士に仕えながら卒(卒族)、軽輩と呼ばれた足軽・中間なども入学できなかったのと対照的であった。
萩市 (トリップアドバイザー提供)
萩市 (トリップアドバイザー提供)
短期間しか存続しなかったが、尊王攘夷を掲げて京都で活動した者や、明治維新で新政府に関わる人間を多く輩出した。
塾生名簿は現存しないが、著名な門下生には久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山縣有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎らがいる。また木戸孝允も塾生ではないものの明倫館時代の松陰に兵学の教えを受けている。
明治維新の後に復活し、1892年(明治25年)まで存続した。萩市の松陰神社の境内には、修復された当時の建物がある。 1922年(大正11年)10月12日、国の史跡に指定されている。管理団体は松陰神社である。
2009年(平成21年)1月5日に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一つとして世界遺産暫定リストに追加掲載された。
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8
●松蔭の人物像
吉田松陰は調べれば調べるほど、また話しを聞けば聞くほど、
思想家というより秀逸な教育者としてきわめて希有な存在であったと感ずる。わずか30歳足らずの命のなかで、評価は別とし、かくも多くのひとびとの将来を決する影響を与えた人物は日本の歴史のなかでも他には存在しないのではないと思う。
それは今流の言葉で言う<リテラシー>力にとどまらず、まさにミッション(社会的使命感、理念、哲学)、パッション(情熱、気力)、アクション(行動力)を全人格的に兼ね備えた人物である。松蔭は、それらをとりわけ松下村塾など教育の場において全身全霊をもって門下に投入した人物と思える。
しかも、萩博物館長が解説してくれたように、最近発見された当時の絵から、松下村塾での松蔭の講義形態は、いわゆる学校形式ではなく、塾生、門下のなかに一員として入り話すことを重視していた。これに象徴されるように、上から目線ではなく、あくまでも同じ人間として対等、平等を心がけていた。それは単なる熱血先生ではない。
それは最も厳しい場面、すなわち刑死の直前まで処刑者に話しかける様にも現れている。あくまでも自分以外の人に熱情をもって語りかけることにも象徴されている。
吉田松陰は、とかく尊皇攘夷や大日本主義など、危ない対外膨張的思想の主として評されることが多いが、私はあるべき教育者像としてこそ学ぶべき人物であると考えている。
もうひとつ。それは吉田松陰は飾り気なく、質素で質実剛健を地で行った人物であったと思う。見栄も虚勢もなく、正直で至誠、社会経済的弱者への思いやりなどこの上ない人物であったということだ。これはありとあらゆる伝聞から分かる。
松蔭に影響を与えた人物として信州松代の佐久間象山がいる。象山は自信過剰で傲慢なところがある。それ故に敵が多かったとされ、数々の業績を残したにも関わらず現在に至るまで象山の評価が低いのも、彼の性格の由来するところが大きいと言う人もいる。
一方、松蔭の人物像は、まさに佐久間象山の対極にあると言えよう。謙虚、至誠である。松蔭は「しなやかさ」と「したたかさ」を同時にもっていたことも特筆すべきである。
ところで吉田松陰の人物像として興味深い「論考」があったので紹介したい。出典は
吉田松陰はどんな人物か?
外見は面長で目は長く切れ、服装や髪の毛はきちんとしておらず、あまり身だしなみに気を遣わないたちだったようです。
口調はいつもおだやかで物腰は柔らかく、いつも何か嬉しいことが待っているようにわくわくしているような感じの人だったと言われています。
ペリーの船に密航を企てたときに同行した松蔭最初の弟子・金子重之輔は初対面の時その印象を〜矯激な行動派ということから想像していた人物像と全く異なって、婦人のような人である〜と感じたと松蔭に伝えたところ、松蔭は、「人生において大事をなさんとする者は和気がなければなりませぬ。温然たること婦人、好女のごとし。」と答え、おだやかな人柄を持って、はじめて気魄(きはく)を養うことが出来ると教えました。
実際に、日頃はおだやかで物腰柔らかだったのですが、ひとたび国事の話になると眼光は爛々と輝き、頬は紅潮し、髪は震え、全身より気力を発するが如しであったそうです。
松蔭は年若き門人をも「あなた」と呼び、自分を「僕」と称しました。「僕」とは本来、奉仕する人を表す言葉です。
自分を「僕」と称したのは松蔭が最初だとか。自分は師ではない、一緒に学ぼうと呼びかけます。そういう松蔭の人柄に惹かれて近所の子供たちも塾へ来たと言うことです。
....
松蔭は人と言葉を少し交わしただけでその人物の長所・短所・将来どのような方向へ伸びていく可能性があるのかを見抜いてしまう不思議な才能があったようです。
そうして、その長所を「防長随一」とか「天下一」という言葉でほめて、本人すら気づいていない潜在力を引き出していったのです。
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8
松下村塾の講義・助言室
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8
●松蔭の格言・教え
至誠而不動者未之有也
至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり
(至誠をもって対すれば動かすことができないものはない)
至誠とは:この上なく誠実なこと。また、その心。まごころ。
- 立志尚特異 (志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない)
- 俗流與議難 (世俗の意見に惑わされてもいけない)
- 不思身後業 (死んだ後の業苦を思い煩うな)
- 且偸目前安 (目先の安楽は一時しのぎと知れ)
- 百年一瞬耳 (百年の時は一瞬にすぎない)
- 君子勿素餐 (君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ)
- 志を立ててもって万事の源となす
- (何事も志がなければならない。志を立てることが全ての源となる)
志士は溝壑に在るを忘れず
(志ある人は、その実現のためには、溝や谷に落ちて
屍(しかばね)をさらしても構わないと常に覚悟しているものだ)
己に真の志あれば、無志はおのずから引き去る恐るるにたらず
(自分に真の志があれば、無志(虫)は自ら引き下がるものだ)
凡そ生まれて人たらば宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし
(人として生まれてきた以上、動物とは違わなければならない。
人間は道徳を知り、行なわなければ人間とは言えない)
体は私なり、心は公なり公を役にして私に殉う者を小人と為す
(私を使役して、道を行なうことに心がける者が大人であり、
反対に、私の欲望を満足させる事を目的とするものは小人である)
人賢愚ありと雖も各々十二の才能なきはなし
湊合して大成する時は必ず全備する所あらん
(人には能力の違いはあるけれども、誰にも長所はあるものである。
その長所を伸ばしていけば必ず立派な人になれるであろう)
- 死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
- 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし
- (死んでも志が残るものであれば、いつでも死ねばよい。
生きて大事を為せるならば、いつまでも生きてそれをやればよい)
※「男児たるものどう生き、どう死ねばよいのか」という問いに対して。
-
妄(みだり)に人の師となるべからず。また、妄に人を師とすべからず
- 夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、
- 実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。
君子は、何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、
その上で行動する。小人は、何事に臨んでも、それが利益になるか
否かと考えて、その上で行動する
末の世において道義を実践したならば、必ずその時の人々から、
極端だといわれるであろう。もしまた、世人から極端だと
いわれるくらいでなければ、決して道義ではないのであって、
すなわち世俗に同調し濁った世に迎合したものにすぎない。
士たるものの貴ぶところは徳であって才ではなく、
行動であって学識ではない
人間の真価は 人生の最期で決まる。自らの志を捨て去り
晩節を汚すこと程人間として醜悪な敗残の姿はない。
弟子たちよどうかわが志を押し広げ これを満天下に
宣揚していってくれ。これ以上に私という人間をよく知る道は
ないのだ。意気盛んならば天下に難事なし
「知行合一」
学者になってはいかぬ。
人は実行が第一である。
学んでも行動しなければ社会の役には立たず、
学ばずに行動すれば社会に害をもたらす。
●松蔭幽因の部屋
松下村塾のすぐ隣に、父杉百合之助の旧宅がある。松蔭が伊豆の下田港で米国行きの船への乗船に失敗し当初、江戸の獄につながれていた。その後、萩の野山獄に移された。1855年安政2年、許されて実家へお預けとなり3畳半一間に幽因されることになった。
ここで父兄や近親者が松蔭の講義を開き、やがて入門者が増えて私塾の形態となった。この私塾は安政4年に松下村塾に移るまで1年半ばかり続けられた。
松蔭はその後、安政5年に老中間部への要撃を企てたため、萩野山獄に再入獄される前の一ヶ月、この父杉百合之助の旧宅の3畳半一間に幽因されることになる。
父杉百合之助の旧宅
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8
以下は幽因室である。
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8
●松蔭の『幽囚録』
吉田松陰が狭い幽因室で執筆した著書に「幽因録」がある。以下、松蔭の対外思想を記したと思えるこの「幽因録」についての私見を述べてみたい。
関ヶ原の戦いで負けた毛利家が山陰の小さな萩に封印された後、明治維新を切り開く思想、精神と幾多の人材を輩出し、近代日本の国の形を方向付けることになった。
その評価は別として、萩には豊かな歴史と文化に彩られた有形、無形の文物があるのは間違いない。その意味で人口わずか5万人少しの萩は、京都や東京以上にキーパーソンを生み出していると言えるだろう。
だが、吉田松陰の思想、とくに対外政策の評価という観点から見ると、その後の日本近代、そしてごく最近まで、それらの思想と対外政策は世界のなかの日本という評価されるべきか、考えさせられるところが多々ある。
筆者は、脱亜入欧、さらにその後の米国追随、盲従のひとつの人物的系譜の原点は、中津藩(大分県)の福沢諭吉にあると常々考えてきた。福沢諭吉は日本の一つの精神風土である官尊民卑を覆えしたという意味で大いに評価されるべきである。
しかし、これは脱亜入欧を主軸、重視し、ごく最近まで日本政府が周辺アジア諸国軽視、さらには蔑視の精神風土の源流をなしてきたことに他ならないではないかと考える。
他方、長州藩(山口県)が輩出した人材の多くは、「大日本主義」論者、すなわち周辺諸外国の日本領化、日本への帰属化など対外膨張主義をとっているが、その原点は、吉田松陰の思想の影響であると考える。
没後150年を迎える吉田松陰は、教育はじめ人間の生き方として多くを残しているのは言を待たない。しかし、こと日本の対外政策に「大日本主義」的な思想の源流を形作ったと言う意味で多くの課題を残したと思える。
吉田松陰は『
幽囚録』において「今急武備を修め、艦略具は?略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・オホーツクを奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記している。
これは北海道の開拓、沖縄(当時は独立した国家であった)の日本領化、朝鮮の日本への属国化、満州・台湾・フィリピンの領有を主張するものであり、まさに「大日本主義」=対外膨張主義的思想に他ならないと考える。
福沢諭吉、吉田松陰ともに官尊民卑思想や天皇の元での平等を説き、門下、塾生に真摯、親切丁寧に助言指導してきた思想家が、こと対外政策となると「大日本主義」=対外膨張主義的思想に転ずるのであろうか、ここに大きな論点を見る。
松蔭の『幽囚録』は、見方を変えれば太平洋戦争時の大東亜共栄圏的発想の原点を見る。もちろん、彼らは単なる西洋かぶれなどではないとしてもだ。
当時、松下村塾出身者の多くが明治維新後に政府の中心で活躍したこともあり、吉田松陰の思想、すなわち「大日本主義」思想は日本の対外政策に大きな影響を与えることとなったと思える。これは日本初代総理である伊藤博文氏、山県有朋氏、桂太郎氏、寺内正毅氏、田中義一氏の対外政策にも影響が及んでいると言える。
その意味で私は吉田松陰の師匠である佐久間象山の思想のなかに、「小日本主義」の思想をかいま見るものである。
松蔭のこの対外思想は、日本の近代、現代を支配した対外政策となるが、この流れを変えるとすれば、それは石橋湛山、鳩山一郎であり小沢一郎であるかも知れない。これについては別の機会に譲りたい。
※佐藤清文:ミニマ・ヤポニア〜小日本主義の政治哲学〜 全目次 2007.1.1
※佐藤清文 連載「石橋湛山」
松下村塾内に飾られてある吉田松陰肖像
出典:萩松下村塾資料
たとえば、当時の松陰については、次のような意見もある。すなわち
「実際の松蔭は、国名と人名さえ区別できなかったのか、アメリカ合衆国をなぜかワシントンと書いたりしています。オーストラリアの大半は砂漠か乾燥地帯であるが、豊かな大地がひろがり、人々は富み栄えていると思いこんでいたようです。海外渡航を企てましたが失敗。これで世界の現実について正確な理解・知識が得られませんでした。佐久間象山から蘭学を教わってはいたものの、もし密航に成功して海外の実情をつぶさに目の当たりにしたなら、別の発想を抱いた可能性もあったかも知れません。基本思想は天皇中心の膨張思想で、あくまで日本中心の自己本位な思想でした。国力を過大に幻想し排外的に走る傾向があり、結果的には破綻を迎えたのも、仕方ないことかも知れません」。
おそらく上の意見は妥当なものと思える。旅好きで現場主義の松蔭が、もし欧米に実際自分の足で歩き、見聞したとしたら対外思想、政策も違ったものになっていたかも知れない。
私見では、対外思想、政策に限らず内政でも、普段は冷静沈着なようで、ここ一番で血気や情熱が先走り、唐突な行動に走っているようにも見える。にもかかわらず、松蔭の評価が高いのは、自分が思ったこと、考えたこと、行ったことをつつみ隠さず正直に吐露したこと、考えたことを必ず実行に移したことにあると思える。
「隗より始めよ」とはまさに松蔭のためにある諺であろう。
ひと言で言えば松蔭は、至誠で質素、保身がない。まさにミッション(理念、思想)、パッション(熱意、情熱)、アクション(行動)を貫徹した人間なのである。
つづく