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萩城跡を視察した後、私達は呉服町など萩城下町にある家老住宅、武家屋敷、藩御用商人、とりわけ菊屋家住宅、高杉晋作家、木戸孝允家、青木周弼家など萩観光の目玉を駆け足で見て回った。さらに鍵曲がりなど萩ならではのまちづくりスポットも山口宇部空港にもどるまで寸暇を惜しんで見て回ったた。 見て回ったのは、以下の萩城下町である。この地には幕末から明治維新にかけ活躍した名士や豪商の住宅、武家屋敷、御用商人が集中している。 下は御成道の大名行列イベントの写真。ちょうど、菊屋家住宅前を通過するところ。 出典:一大歴史絵巻【萩時代まつり】 ■菊屋家住宅とその庭園 萩を歩いていると、<菊ヶ浜>や<菊屋家住宅>など、<菊>あるいは<菊屋>という名をよく耳にする。 今から400年前、 毛利輝元が 城下町を築くまでの萩の中心市街地は、大部分が沼だった。 また椿東の山裾から海岸までは竹や木がしげり、沿岸域は松原だった。 その萩のまちづくりは、竹や木を払い、松を切り根を掘り起こし、その上で湿地を埋め立て、その上に道路、さらに屋敷まちや町人の住むまちを造らざるを得なかった。当然のこととして、 それらまちづくりには多くの労力が必要とされた。 毛利輝元が萩に移る時、従って来たのは家臣、武士だけでなく、多くの町人も従って来た。 後に<菊ヶ浜>や<菊屋家住宅>などの名を残す、菊屋友味も その町人の一人であった。 菊屋家は室町時代、山口に住む津守家という武士の身分であったが、 武士を捨て町人になる。菊屋友味は関ヶ原の戦いの後、毛利輝元が深刻な財政難に見舞われたとき献金をするなど 毛利家とのつながりを持った。 萩に入った菊屋家は、現在の菊屋家住宅周辺を毛利輝元から与えられ呉服町という町名がついた。菊屋家はその後、萩藩の御用商人となり、大商人の商家となり、萩のまちづくりに貢献したという。菊屋家住宅をみると、菊屋家の風格がよく分かる。 この菊屋家住宅も御成道に面している。 菊屋家住宅は、萩藩きっての豪商で、幕府巡見使の宿の本陣であった菊屋家の住であり、母屋、本蔵、金蔵、米蔵などが国の重要文化財に指定されている。菊屋家住宅は日本最古に属する江戸時代初期の大型町屋である。 出典:http://www.nihontabi.com/nihon47.html ●菊屋家住宅の建築物概要 出典:日本の旅風景 【主屋】 主屋の建築年代は明らかではないが、家に伝わる勤功書や建築手法からみて承応元年(1652)から明暦3年(1657)までの間に建てられたものと考えられる。 桁行 13.0m、梁間 14.9m、切妻造り桟瓦葺きで居室部は前寄り一間半を「みせ」とし、その奥は土間寄りに役向きの部屋が3部屋設けられている。その上手は東に面して座敷2部屋があり、南寄りに家族の生活の場が間取りされている。 全国的にみても現存する大型の町屋としてその価値は極めて高い。 【本蔵】 本蔵は主屋の後方にあり、土蔵づくり桁行 11.7m、梁間 4.8m、2階建て、切妻造り桟瓦葺き土蔵で、建築年代は明治ごろと思われる。 【金蔵】 金蔵は本蔵の後方で、屋敷西側の道路に側面して建っている。桁行 6.1m、梁間 4.2m、2階建、切妻造り桟瓦葺き土蔵で、建築年代は江戸中期から後期のものと思われる。内部には板石囲いの地下室が設けられている。 【米蔵】 米蔵はさらに後方の道路に沿って建っている。桁行 11.8m、梁間 4.0m、切妻造り桟瓦葺き土蔵で、内部は石敷きの床であるが、以前は床板の建物であった。建築年代は19世紀ごろと思われる。 【釜場】 釜場は金蔵の東側にある桁行 6.0m、梁間 4.0m、切妻造り桟瓦葺きの小規模な建物で、北面は吹き放し、ほか三方は土大壁である。19世紀初めごろの建築と思われる。 これらの屋敷は、主屋が極めて古く、蔵その他の付属屋も屋敷構えの一環として貴重であり、主屋と数棟の蔵が建ち並ぶ西側の景観は「国指定史跡萩城城下町」の地域内にあって重要な構成要素の一つをなしている。 ●菊屋家住宅のみどころ 通常、見学できるのは母屋(主屋)と本蔵、金蔵、釜場、米蔵の5棟が国の重要文化財指定を受けている。往時の美術品、民具、古書籍などの500余点、付属建物、庭園を含めて常設展示している。 庭園に関しては、通常一部だけであったが、今回私達には庭園のすべてを見せていただいた。 以下は特別公開の告知文 ●秋の庭園特別公開 今年も又秋の特別公開として、平素は公開していない奥の菊屋家庭園を皆様にご覧いただけます。 菊屋家庭園は江戸時代以前にその原型はさかのぼり、その後四期にわたって改修されました。 枯池,築山を中心とした枯山水庭園です。11月は紅葉して非常に美しい庭園です。ぜひこの機会に、重要文化財菊屋家住宅におこし下さい。 期 間 平成21年10月17日(土)~平成21年11月30日(月) 開館時間 8時30分〜17時30分(入館は17時15分まで) 菊屋家庭園 出典:菊屋家住宅・みどころ 以下、菊屋家住宅の秀逸な日本庭園のすべてをあますところなく写真でお見せしたい。 菊屋家住宅の庭園 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 菊屋家住宅の庭園 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 菊屋家住宅の庭園 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 菊屋家住宅の庭園 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8
菊屋家住宅の庭園 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 下の新座敷は、昭和9年、東伏宮妃殿下の来萩を迎えるにあたって新築された「新座敷」。当時、萩に来られた宮家の使用のために用意されたとのこと。ガラス戸が新鮮である。 菊屋家住宅の新座敷 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 菊屋家住宅の新座敷 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 菊屋家住宅の庭園 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 ●菊屋家詳細(出典:菊屋家住宅・沿革)
菊屋家は摂津の国(大阪)住吉大社の、津守摂津守国量朝臣を祖とし、中世期大内氏に随身して山口に住み、同氏滅亡後は武士を捨てて町人となった。 その頃、山口四十八町の惣町支配を勤め、永禄十二年(1569年)大友宗麟の後押しで大内輝弘が山口に乱入した時は四十八町の人を連れ、高嶺城にたてこもって防戦に功があり、毛利元就から感状をうけた。また毛利輝元が関ヶ原の戦いの直後、京都伏見から広島へ帰る路銀が不足していることを聞いて急場の難を救ったこともある。このころまでは津守姓であったが、のちに石川姓・菊屋姓に改めた。 慶長九年(1604年)輝元の萩入国に従い、現在地に屋敷地を拝領して家を建てた。また城下の町割りに尽力し、阿古ヶ浜には藩士や足軽衆のための家を建てて住まわせたので、それより世上阿古ヶ浜を菊ヶ浜と称するようになった。その後、菊屋家は代々大年寄格に任命され藩の御用達を勤めた。 また度々、御上使の本陣を命ぜられ、その他御究場所・恵民録役所等しばしば藩の御用宅に借り上げられていた。
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