|
■吉田松陰及び一族らの墓所 吉田松陰誕生の地の直ぐ隣に、吉田松陰及び一族さらに高杉晋作など松下村塾門下の墓がある。 吉田松陰一族及び門下生の墓所 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 ●吉田松陰年譜 吉田松陰肖像。この肖像画は、門下生の松浦松洞が松蔭が 斬首を受ける直前の書いたものとされている。 出典:萩松下村塾資料
●吉田松陰刑死 吉田松陰が江戸で斬首となったことは誰でも知っているが、その具体的経緯についてはあまり知られていない。 2005年3月に刊行された読売新聞西武本社発行の「萩歴史スケッチ」(もともと新聞に連載されていたものを一冊の著作にしたもの)に、松蔭処刑の経緯が仔細に記されているので以下に示す。 松蔭が安政の大獄に連座し1859年(安政6年)7月27日、江戸伝馬町牢屋屋敷内の刑場で斬首された。29歳のことであった。直接の罪は井伊直弼老中暗殺計画への関与だ。 幕府が萩藩の江戸藩邸に松蔭の江戸召喚を命じたのが同年4月19日。この命令が直目付の長井雅楽らによって萩に伝えられたのが5月14日。当時、下田で米艦での密航を企てた罪で、萩城下の野山獄に再入獄中だった松蔭に兄、梅太郎によって知らされた。 そして5月29日、護送かごで江戸へ立った。江戸到着は6月24日(当時、萩、江戸間は約1ヶ月かかった)で、江戸藩邸の牢に入れられた後、7月9日に評定所から呼び出しがあり、伝馬町牢屋敷に入れられた。米艦への密航時以来、2回目の入獄となる。 この時点まで、松蔭自身はもともと江戸への呼び出しの内容に検討がつかず、死刑となるとは思っていなかったと見られている。実際に尋問は、若狭国小浜藩士で安政の大獄の最初の逮捕者となった尊王攘夷派の志士、梅田雲浜との関係を問いただしたり、京都御所に落とし文をしたかどうか、といったもので、いずれも簡単に嫌疑がはれた。 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 しかし、その後、松蔭は自らを窮地に追い込む発言をしてしまう。すなわち、松蔭は「私は死罪に値する二つの罪を持っている」として老中、間部暗殺計画と倒幕のため京都の公卿三位大原重徳に手紙を出したことを明かしてしまっていた。 その後、松蔭は死刑を悟り、10月20日には父杉百合之助、兄の梅太郎、叔父の玉木文之助らにあて永訣の書を書き「親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん」の一首をそえている。 そして刑死2日前の10月25日には、門下生や知友たちへの遺言状ともいえべき「留魂録」の執筆に取りかかっている。書き終えたのが10月26日夕、獄中で手に入れた半紙を四つ折りにして19面に書き、全部で5000字にものぼっている。冒頭の一首が有名な「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」である。 刑死当日の10月27日朝、評定所への呼び出しがあり、死罪の申し渡しののち、正午頃処刑された。死に臨んでの態度は堂々としていたとされる。呼び出しの声を聞き、「此程に思定めし出立ハ、けふきくこそ嬉しかりける」と最後の一首を書いた。 伝馬町牢屋敷には全国から送られて入牢したのは数10万人に及びうち、1万人以上が刑死したとされる。このうち、幕末の数年間で、松蔭や橋本左内、頼三樹三郎ら安政の大獄や桜田門外の変の関係者を合わせると96人が刑死している。 吉田松陰の墓 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 安政の大獄に連座し1859年(安政6年)10月27日に伝馬町の獄牢で処刑された吉田松陰の遺体は、最初は小塚原回向院に埋葬され、その後、毛利家が所有していた東京都世田谷区若林お抱え地(現在、世田谷区若林4丁目)に改葬された。この改葬地が現在、東京にある松陰神社となっている。 刑死者の扱いは極めて粗雑で、松蔭の遺体は四斗桶に入れ、回向院のわら小屋に置かれていた。役人が桶を取り出し、蓋を開けると、首の顔色はまだ生きてるようにも見えたが、髪は乱れ顔面を覆い、血がべったりとこびりつき、胴体は裸のままだった。 松下村塾門下生の飯田正伯が髪を束ね、桂小五郎(のちに木戸孝充)と尼寺は水で血を洗い落とした。飯田は黒羽二重の下衣を、桂が襦袢を脱いで遺体にまとい、伊藤(伊藤博文)が帯を解いて結んだ。その上に首を置き、持参した甕に納めた。そして、同じく安政の大獄で死罪となった福井藩士、橋本左内の墓の左を掘って葬った。 小塚原回向院は小塚刑場での刑死者や行路描写の供養のため、両国回向院の別院として1667年(寛文7年)に南千住に開かれた。埋葬者は20余万人とされ、殺人、強盗、火付けらの罪人なども一緒だった。憂国の志士たちも多く埋葬されていた。 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 右から吉田大助、吉田松蔭、吉田庫三、吉田稔麿の墓(上の図参照) 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 29歳で無くなった高杉晋作の墓。 松蔭の墓の背後にある(上の図参照) 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 松蔭の遺体がその後、世田谷区若林の地に改葬されたのは、特に久坂、高杉晋作らにとって、こうした殺人、強盗などの罪人等と同等の扱いを受けることは耐え難かったからだ。 久坂が朝廷に働きかけ改葬に奔走した結果、1862年(文久2年)、朝廷から将軍家茂に勅論が授けられ、これをもとに幕府は安政以来の国事犯刑死者の罪名を許す大勅令を布告した。 これを受けて翌1863年江戸にいた高杉晋作ら松下村塾の門下生が松蔭の改葬を果たした。現在、回向院墓所内に立つ松蔭の墓は、1942年に建てられた記念墓という。 萩市椿東の松陰誕生地の近くにある松蔭の墓は、処刑100日後の1860年(万延元年)、杉家、門下生達が遺髪を埋葬したものである。 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 つづく |