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景勝「菊ヶ浜」を後に、私たちは萩博物館に向かった。下の地図にあるように、「菊ヶ浜」と「萩博物館」は目と鼻の先の距離にある。 ■萩博物館 今回、萩市内を案内してくれている津田和夫さんは萩博物館のガイド・ボランティアをされている。 現在の萩市中心部 出典:グーグルマップ 萩博物館は、下の江戸時代の絵図にあるように、毛利家家臣の毛利隠岐の武家屋敷跡に立地している。 萩博物館は、”まちじゅう博物館”萩の一大拠点でもある。博物館は、平成16年11月11日に開館し、萩の自然、歴史、民族、産業、工芸などについての文物を収集、保管し展示している。興味深いのは、土地の所有と博物館の施設建設は萩市が受け持っているが、その運営である。指定管理者制度は使わずNPOや60歳以上のガイドボランティアと協業していることである。 萩博物館東門 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 とりわけ萩市民がボランティアで受付や館内のコンシェルジェ、ガイドに当たっている。津田さんもそのひとりだ。現在、全国自治体が設立運営する博物館の多くは経営的に赤字になっているが、萩の歴史・文化への関心と郷土愛と知識、知性、情熱を持った地元市民がボランティアで博物館の運営に当たることで、経営面のみならず地元市民、小中高校学校生、観光客などに、さまざまな面でプラスになっているようだ。 ●萩博物館の管理と運営 博物館学芸班と事務局、そしてNPO萩まちじゅう博物館の会員である萩市民が協働で行っている。
往時の面影を残す萩博物館
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 ●萩博物館の施設概要 萩博物館の敷地は、旧萩城三の丸にあたる堀内伝統的建造物群保存地区内にある。このことから博物館の各建物の配置や外観はかつてこの地区内にあった規模の大きい武家屋敷の特徴にならっていおり、博物館自体が往事の景観、建築物のみならず雰囲気を醸成している。 萩博物館本体の構造は鉄筋コンクリート造だが、軒先には木材を使用し、外壁は漆喰壁、なまこ壁、杉板下見張り壁で、伝統的建造物群保存地区にあって違和感のないよう配慮している。敷地周囲には隅矢倉、長屋門、土塀などを配し、通りからの景観についても周辺との調和を図っている。 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 ●萩博物館全体概要
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 下は萩博物館の中庭。これももともとの武家屋敷を再現したとか。 萩博物館の中庭 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 萩博物館の中庭 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 津田さんの計らいで、短時間であるが高木館長に館内をご案内頂き、議論することができた。津田さんによれば高木館長は萩市が公募した館長職に大分から応募されたとのことで、今後の博物館では、萩人以外の第三者的な視点も必要という観点から選ばれたそうだ。 実際、館長と話してみると、今までの国の文化庁的な観点で文物を収集、保管し見せると言うだけでなく、独自な視点でこの日本有数の歴史と文化をもつ萩の博物館を運営していることが分かった。 左より筆者、右奥が高木館長、手前は津田和夫氏 撮影:堀洋太郎氏 萩と言えば、吉田松陰先生が生まれた土地、当然のこととして萩博物館では吉田松陰の企画展示が大きな目玉となっている。今回の博物館訪問では、吉田松陰の新たな企画展示は丁度終了していたが、松蔭先生にまつわる絵画の展示物があった。 高木館長曰く、「数ある絵画のなかでこの一点に注目された方がいた」と。その一点は、松下村塾で門下の塾生と議論する松蔭先生を描いたものだ。松下村塾では8畳程度の狭い塾のなかで、いわゆる学校形式ではなく、対面形式、それも塾生と横並びで松蔭先生が座っているところを描いてある。 では何が注目に値するかと言えば、松蔭先生は学校形式で門下の塾生を上から目線で序言・指導するのではなく、口の字ないし横並びの一員として助言・指導していることにあると言うのだ。 言われてみれば、その絵画では2列に塾生が横並びで座っているなかに松蔭先生がいた。 ではなぜ、萩城が壊れたのか? 先に述べたように、関ヶ原の戦いで破れた毛利陣営は、もともと中国地方一帯で120万石あった石高は江戸幕府からの命令で防長2州に封印され、石高も約1/3の36万石に縮減された。広島にあった毛利一族の居城を萩に移すことになった。なぜ、萩に移したかについては諸説があるが、萩の指月山の麓に移築したのである。当然のこととして、毛利家だけでなく家臣らにはさまざま複雑な思いがあったはずだ。 毛利輝元は1604年(慶長9年)に萩城築城に着工し、4年後に竣工する。1874年(明治7年)廃城令により天守・櫓などの建物を破却したとされている。 破却前の萩城 出典:萩博物館資料 高木館長によれば、幕末から明治維新に移行する過程で倒幕運動の急先鋒となった薩摩藩とともに長州藩は、廃城令以前に率先して天守・櫓などの建物を破却したという。理由はおそらくふたつ想定される。ひとつは徳川幕府への関ヶ原の戦い以降の昔年の怨念、もうひとつは明治維新政府への忠誠、すなわち率先して城を破壊することにより、徳川江戸倒幕の意志を鮮明にしたというだ。 高木館長とは、遺産、遺跡の保全、保存、展示の方法などについて貴重な議論ができた。私自身、世界各地で歴史的建築物、建造物、遺跡などの修復、保存を現場でまのあたりに見てきた。ただ、日本と欧州では、たとえば欧州の場合、建築物、建造物の素材の圧倒的多くが「石」であるのに対し、日本では「木」が中心となるなど大きな相異がある。また絵画でも欧州の場合、フレスコ画や油絵が中心となるなど、水彩画が中心に我が国とは大きく異なる。 たとえば、欧州ではポーランドのワルシャワのようにナチスドイツにより壊滅された建築物、構造物ひとつひとつを市民と建築家などの手で設計図、写真を元に修復、復元することにより町並みそのものを復元している。またクロアチアのドブロブニクでも外国から襲撃され破壊された構造物をやはり市民の手できめ細かく修復している。 これに対し、日本では欧州のように破壊されたり朽ち果ててゆく建築物、遺産を修復、復元するという考え方があるとは言えない。そんな議論も館長と1時間ほどさせていただいた。 萩博物館、正面玄関にて 左は津田和夫氏 撮影:堀洋太郎氏 関ヶ原の戦いで負けた毛利家が山陰の小さな萩に封印された後、明治維新を切り開く思想、精神と幾多の人材を輩出し、近代日本の国の形を方向付けることになった。その評価は別として、萩には豊かな歴史と文化に彩られた有形、無形の文物があるのは間違いない。その意味で人口わずか5万人少しの萩は、京都や東京以上にキーパーソンを生み出していると言えるだろう。 以下は2009年4月から6月に企画展示された「至誠の人吉田松陰」展だ。至誠とは、この上なく誠実なことを意味する。 「至誠の人吉田松陰」展では、以下の展示が行われていた。 ※ 萩博物館のこれまでの催し物 ※ 萩博物館のこれからの催し物 ●HAGIまち博ウォーク また萩博物館を起点(終点)として以下のような古地図ウォークも行われている。 ※ HAGIまち博ウォーク(例) |
●周辺景観への配慮 ところで、下の写真は萩博物館を南門を出てところ、外観は武家屋敷そのものを再現していることが分かる。
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 つづく |