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■御成道 「松下村塾」の視察を終えた。ここで午後2時。 昼食をとろうと津田さんが携帯電話であちこちに予約を入れるが、どこもかしこもこの時間はやっていない。そこで萩の中心にある商店街、「田町」のアケード街に向かう。 実はこのアーケードがある田町商店街は、その昔、参勤交代が萩城から城下に向かう「御成道」と呼んでいた。 御成道は萩城から萩高等学校、萩博物館、菊屋家住宅を通り、この田町商店街を通り、国道262号線に抜ける1.5km程の道を指す。 出典:読売新聞西部本社刊、萩歴史スケッチより 下は江戸時代の御成道。 江戸時代の御成道 下は現在の菊屋家住宅付近の御成道の景観。 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 下は萩博物館脇の旧御成道だ。この道を奥に行く左側に萩西中学校、萩高等学校があり、さらに行くと萩城跡に出る。 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 私達は田町商店街から少し旧明倫館側にある「そば屋」に行き、寒いので「鍋焼きうどん」をいただく。 御成道沿いの商店街では、現在、江戸時代のお成り道で新たなまちづくり社会実験が行われている。たとえば、株式会社お成り道の第1号店「萩の台所 とれたて市場」、農家レストラン「天蔵」などのレストラン(下の写真参照)が奮闘中である。 今回ご案内いただいている津田和夫さんのご自宅がアーケード内にあるというので外から津田薬局を見せていただく。萩で100年以上続く、薬莢の老舗である。看板もなかなか立派。 実は私の教え子が萩の出身で、何とアーケード街で呉服関連の店をしていることもあり、彼からぜひ一度、萩に来て欲しいと言われていた。在学中、萩に行く機会がなかったが、今回図らずもその夢が叶ったことになる。 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 食事をとった後、車で萩城跡に向かう。 ■萩城跡 昼食後、萩城跡に向かう。 萩城跡は、現在、広大な指月(しづき)公園の北側にある。 撮影:津田和夫氏 出典:グーグルストリートビュー 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 ●志都岐山(しづきやま)神社 城跡に行く前に、志都岐山(しづきやま)神社による。 志都岐山神社は、指月公園中央にあるかつての県社で、毛利元就(もとなり)、隆元、輝元、敬親(たかちか)、元徳(もとのり)を5柱として、初代から12代まで萩藩歴代藩主を祀る。社務所は永代家老福原家の書院を移築したもの。参道にはミドリヨシノと呼ばれる天然記念物の桜も見られ、児玉花外の詩碑も立っている。 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 下はミドリヨシノと呼ばれる天然記念物の桜。春には参道の桜が満開となり、茶会が開かれるという。 ミドリヨシノと呼ばれる天然記念物の桜 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 志都岐山神社への石段を登る前に井戸がある。その井戸を寄進したのは、長州藩から初代群馬県知事(官選知事)になった楫取 素彦(かとり もとひこ)とのことだ。
初代群馬県知事(官選知事)楫取素彦から寄進を受けた井戸 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 ●萩城跡 萩城は別名・指月城(しづきじょう)。日本海に張り出した指月山の詰の丸と、その山麓に梯郭式に本丸・二の丸・三の丸を配し3重の堀を巡らした平山城であった。厳密には、指月山の詰の丸と山麓の城は独立したものであり、平山城ではなく平城と山城であるとする見解がある。また、海に突出しているため、海城であるという見方もある。 明治初期の天守を描いた絵画 出典:Wikipedia 出典:萩城復元勉強会Webより 天守は複合式望楼型5層5階で、赤瓦葺で初層を天守台より大きく張り出させた張出(はりだし)という造りが採用され、最上階には外廻縁高欄や華頭窓があった。明治7年(1874年)前年に発布された廃城令により櫓など他の建物と共に破却され、石垣のみが現存している。現存していた頃の姿は解体前に撮影された古写真でのみ見ることができる。近年では破却された天守等を復元する動きがあるが、財源の問題で難しくなっている。 現在は指月公園として整備され、旧城の入り口には旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(国の重要文化財)が現存し、松下村塾や侍屋敷などとともに萩市の観光名所となっている。また、指月山の原生林は、国の天然記念物に指定されている。 下は萩城跡から見た内堀跡。萩城の内堀 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 萩城の内堀 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 萩城にまつわる話しは多い。なかでも輝元を西軍大将とする関ヶ原の戦いで敗れ120万石から防長の2国で36万石へさせられたあと、それ以前の広島城に代わる新たな城適地として、山口の高峰、萩の指月山、三田尻の桑山の3地から萩に決まった過程である。 毛利輝元像 通説では、幕府から最も遠く辺鄙な萩に押し込まれたということになっている。しかし、どうもそうでないらしい。萩歴史スケッチの「萩城の石垣」を読むと、高峰は海岸線がなく、桑山は砂山のために石垣の築造が困難であった。 これに対し、萩は阿武川の河口部に位置し、分流した橋本川、松本川の両川にはさまれた三角州にあり、阿武川河口の沖積低地に浮かぶ島だったという。 萩城跡の入口に鎮座する毛利輝元公像 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 ●築城の経緯 この地形は広島城が築かれた大田川河口の三角州と類似し、輝元によき時代のよき城だった広島への郷愁や感慨があったと推測されるという。 また築城に必要な物資の運搬にも、河川や海上交通が容易であったこと、さらに現在で言えば大型ダンプ数1000台に及ぶ石垣築造用の花崗岩の大岩が指月山の北側に存在していたことなどがあるという。 萩城は1604年(慶長9年)に着工されわずか4年で竣工させたという。 城跡には膨大な石垣が今なお残っているが、城跡の石垣を見ると、短期間にこれだけ膨大な土木事業を完遂させた背後には、延べで何10万人ものひとびとが総動員されたと推察できる。 ●萩城の外堀 その昔、萩城は他の城同様に本丸、二の丸、三の丸により構成され、防備の観点からそれぞれ内堀、中堀、外堀が設けられていた。 外堀の完成は元和8(1622)年、だが外堀の東側に町屋が造られ、町屋の進出と共に土砂が堆積した。 大雨の度に被害に遭い、船の通行も出来なくなるなどの問題もあり、元文4(1739)年に浚渫工事を行い整備し、このとき堀幅の幅員は大幅に狭くなった。 下は修復された萩城の外堀である。 1622年(元和8年)に完成した外堀は江戸時代、次々と埋め立てられ外堀の幅は当初40mあったがその後、28m、さらに1739年には16mにまで狭められた。 復元された萩城の外堀 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 出典:読売新聞西部本社刊、萩歴史スケッチ 近年になって1997年から2004年まで都市計画街路の工事で外堀個所を発掘したところ江戸時代の町屋跡は約160軒、出土品は100万点を超えていたという(読売新聞西部本社刊、萩歴史スケッチによる)。 ●指月川 これは、萩中心部で洪水制御のために姥倉運河をつくるため30万人を動員したという。 指月川造築したことにおいても同様である。重機がなかった江戸時代にかくも巨大な土木事業が完遂されたことに驚くとともに、多くの犠牲者も存在したのではないかと推察する。 下は萩城跡から呉服町に行く途中に撮影した指月川。萩疎水とも呼ばれれている。運河の先は日本海と菊ヶ浜に通ずる。 姥倉運河 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 今回は現場を視察できなかったが、指月山の北海岸には石切場の跡があり、採石、石切加工の跡があり、途中まで大岩にくさびを打った跡も残っているという。 つづく |