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萩博物館視察後、私たちは吉田松陰の誕生地に向かった。 ここには松蔭の誕生地であるだけでなく、松陰一族等の墓もある。さらに生誕地、墓地のすぐ隣には毛利家の菩提寺である東光寺、さらに松陰神社、吉田松陰歴史館、また松下村塾もある。 松蔭の誕生地は小高い里山の中腹にある。下の写真は誕生地から萩市を一望した写真である。 吉田松陰生誕の地から撮影した萩中心市街地の全景 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 下は別の角度を撮影したもの。萩市は指月山がシンボルとなっていることがよく分かる。 吉田松陰生誕の地から撮影した萩中心市街地の全景 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 ■吉田松陰誕生地 下は吉田松陰誕生地の概略図である。 凡例:@旧松蔭卓の敷石、A松蔭誕生の石碑、B松蔭産湯の井戸、C寄付者石碑、D行啓記念碑、E行啓記念樹、F杉氏旧宅の跡地、G吉田松陰・金子重輔銅像 吉田松陰誕生地内配置図(緑豊かな里山の中腹にある) 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 吉田松陰の実家は、萩藩士である杉家(家禄26石)の旧住宅である。吉田松陰は杉百合之助の次男としてこの地に生まれ、19歳までの人間形成期をここで過ごした。両親、兄弟ともに農耕に従事し、その合間に父から漢籍の素読などをうけた思い出深い地である。 松蔭自身が書き残した書の中にも、「樹々亭」、「山屋敷」、「山宅」などの表現が見られるが、それはこの生誕地の家を意味する。 間取りは玄関3畳、表座敷6畳、居間6畳、隠居部屋3畳、納戸3畳、台所、それに別棟と納屋と厩(うまや)という非常に狭く簡素な造りであった。 寛永6年(1853)に杉家が転居した後、いつしか建物などは失われ、荒れ果てていたが、大正11年(1922)に椿東村青年会会長の長国顕治が青年会員に呼びかけて整備した。当時の間取りを示す旧宅の敷石も、後に住んでいた人の記憶によって、このときに復元されたものである。 整備にあわせ、山県有朋が吉田松陰先生誕生之地石碑の題字を揮毫している。肩書きを「門下生」のみとしているところに、師に対する謙譲の気持ちが表れている。なお、山県有朋は整備完了前に死去したので、これが絶筆となった。 吉田勝因旧宅間取り図 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 ●吉田松陰の系譜以下は吉田松陰の家系系譜を示したもの。 |
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文左衛門政常=七郎兵衛政之━文左衛門徳卿━七兵衛常徳━┳百合之助常道━━━━┳梅太郎修道(民治) ┣大助賢良 ┗大次郎矩方(松陰) ┃(吉田氏第七代) (吉田氏第八代) ┗文之進 (玉木氏第七代)
梅太郎修道━┳小太郎 民治 ┃(吉田氏第九代) ┃ ┣滝子━━┳道助 ┃ ┗丙三 ┃ ┗道子 (吉田氏第十代)
友之允重矩━┳十郎左衛門矩行=半平=二十郎矩之=市佐矩直=又五郎矩定━他三郎矩建=大助賢良=大次郎矩方(松陰) ┗七郎兵衛政之 (杉氏第二代) 大次郎矩方=小太郎=道子=庫三=衛 松陰 |
●吉田松陰の名前 幼時の名字は杉(本姓不明)。幼名は虎之助。養子後の名字は吉田、大次郎と改める。通称吉田寅次郎。諱は矩方。字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。松陰の号は寛政の三奇人の一人で尊皇家の高山彦九郎のおくり名にちなんでつけられた。 また、「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、および、「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解でき、これらを組み合わせると「二十一回」となることによりつけられている。 出典:Wikipedia |
●吉田松陰の生涯 しかしアヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。また江戸に出て佐久間象山(さくま・ぞうざん)の師事を受けた。嘉永5年(1852年)、長州藩に無許可の形で宮部鼎蔵らと東北の会津藩などを旅行したため、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。 嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を視察し、西洋の先進文明に心を打たれた。そのため安政元年(1854年)に浦賀に再来航していたペリーの艦隊に対してアメリカ密航を望んだ。しかし密航を拒絶されて送還されたため、松陰は乗り捨てた小舟から発見されるであろう証拠が幕府にわたる前に奉行所に自首し、伝馬町の牢屋敷に送られた。この密航事件に連座して師匠の佐久間象山も入牢されている。幕府の一部ではこのときに佐久間、吉田両名を死罪にしようという動きもあったが、老中首座の 阿部正弘が反対したため、助命されて長州の野山獄に送られている。一説ではペリーの暗殺を計画していたともいわれる。 安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の身分に処された。安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は長州藩の下級武士である久坂玄瑞や伊藤博文などの面々を教育していった。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。 安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。だが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫し、松陰は長州藩に自首して老中暗殺計画を自供し、野山獄に送られた。 やがて大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。幕閣の大半は暗殺計画は実行以前に頓挫したことや松陰が素直に罪を自供していたことから、「遠島」にするのが妥当だと考えていたようである。しかし井伊直弼はそれほど甘い人物ではなく、素直に罪を自供したことが仇となって井伊の命令により「死罪」となってしまい、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処された。享年30。生涯独身であった。 出典:Wikipedia |