●毛利氏の系譜
毛利家の本姓は大江氏。家系は鎌倉幕府の名臣大江広元の四男・大江季光を祖とする一族、大江広元の子孫ではあるが嫡流ではない。
名字の「毛利」は、季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利庄(もりのしょう、現在の神奈川県厚木市周辺)に由来する。「毛利」の元来の読みは「もり」だが、後に「もうり」と読まれるようになった。
鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、越後国佐橋庄南条(現在の新潟県柏崎市)から安芸国高田郡吉田(現在の広島県安芸高田市)へ移った後に国人領主として成長し、戦国時代には国人領主から戦国大名への脱皮を遂げ、ついには中国地方最大の勢力となる。
だが1600年の関ヶ原の戦いでは西軍の総大将に祭り上げられ、周防国・長門国の2ヶ国に減封(129万石から36万石)されるも、江戸時代を通じて安泰であった。
江戸時代末期には長州藩から数々の優秀な志士が現れ、明治維新を成就させる原動力となった。
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毛利家の家紋 |
毛利家系譜詳細
- 大江氏系図
- 大江広元─大江季光(毛利四郎、安木守、尊卑分脈には毛利入道と)
- ┌───────┘
- ├毛利広光─章弁─公恵
- ├毛利経光─毛利経元─毛利経親
- └毛利師雄─毛利元親─毛利時元
- 尊卑分脈
- 季光─毛利経光─毛利時親─毛利貞親─毛利親茂─毛利師親
- 毛利系図(毛利元就まで)
- 毛利時親─毛利貞親─毛利親衡(初め親茂、祖父時親、父貞親共に晩年、安芸国に下向。この人より安芸国に在住。南北朝時代の人)─毛利元春(師親)─毛利広房─毛利光房─毛利熈元(熈房)─毛利豊元─毛利弘元─毛利興元─某(幸松丸)─毛利元就(毛利弘元次男)
出典:Wikipedia
●毛利氏廟所
毛利氏霊廟 出典:Wikipedia
東光寺には毛利家の廟所がある。この霊廟は昼でもひっそりしており、500基を超す石灯籠の存在とともに、何か不気味さを感じる。
毛利家では藩主3代(萩での藩主の代数は輝元を初代とせず、秀就を初代として数えている)毛利吉就、5代吉元、7代重就、9代斉房、11代斉元の奇数代の藩主の5基と、それぞれの夫人の合計10基の他、側室など近親者20余基がある。
また重臣諸家の献上した石灯籠500基が並んでいる。国の史跡に指定されている。なお初代秀就と偶数代の藩主は萩市の大照院に廟所がある。秀就の父輝元の廟所は萩市の天樹院跡にある。
重臣諸家の献上した石灯籠500基が並ぶ霊廟
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8
東光寺霊廟に立ち並ぶ石灯籠
出典:グーグルストリートビュー
毛利家代々の霊廟の墓碑
墓碑、右より7代重就と夫人の登代姫、11代斉元と夫人の由美姫。
毛利家代々の霊廟の墓碑
墓碑、右端より、9代斉房と夫人の幸姫、5代吉元と夫人の品姫。
毛利家代々の霊廟の墓碑
右端より、9代斉房と夫人の幸姫、5代吉元と夫人の品姫
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8
出典:グーグルストリートビュー
萩藩主毛利家の菩提寺である東光寺と大照院で開催される「萩・万灯会」が萩の恒例の夏の風物詩となっているそうだ。
毛利氏の菩提を弔うため石灯篭のひとつひとつにろうそくの火が入れられ、周辺の環境とあわせ幻想的な世界を作り出すという。石灯籠の数は、東光寺、約500基が大照院が約600基である。大照院については巻末を参照。
例年、迎え火は8月13日〜14日午後7時30分から大照院で、送り火は8月15日、午後7時30から東光寺で行われる。
夏に訪問したときはぜひ、「萩・万灯会」と大照院にも行ってみたい!
重臣諸家の献上した石灯籠500基
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8
◆大照院
山口県萩市にある臨済宗南禅寺派の寺院である。中国三十三観音霊場第二十番。延暦年間(8世紀末
- 9世紀初)に月輪山観音寺という前身寺院があったというが、創建の事情は定かでない。その後鎌倉時代末期に建長寺の義翁和尚が大椿山歓喜寺と改め、臨済宗の寺院とした。
その後荒廃したが、萩藩2代藩主毛利綱広が亡父の初代藩主秀就の菩提寺とするために承応3年(1654年)から明暦2年(1656年)にかけて再建し、その時秀就の法号にちなんで霊椿山大照院と改めた。
寺は延享4年(1747年)に火ものである。境内の萩藩主毛利家墓所は国の史跡で、初代(萩での藩主の代数は輝元を初代とせず、秀就を初代として数えている)秀就、2代綱広、4代吉広、6代宗広、8代治親、10代斉煕、12代斉広と2代から12代までの偶数代の藩主と夫人や藩士の墓石があり、墓前には藩士が寄進した石灯籠が600数基ある。ちなみに奇数代の藩主の廟所は萩市内の黄檗宗寺院東光寺にあり、秀就の父輝元の廟所は萩市の天樹院跡にある。
出典:Wikipedia
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◆元治甲子殉難烈士墓所 出典:Wikipedia
松島剛蔵の墓 出典:Wikipedia
元治元年(1864年)、京都の禁門の変により幕府への謝罪のため、岩国で自刃した福原元|、徳山で自刃した益田親施、国司親相の3家老。
反対派により萩野山獄で処刑された宍戸真澂、山田亦介、前田孫右衛門、竹内正兵衛(享年46)、毛利登人、松島剛蔵、中村九郎、佐久間左兵衛(享年32)、大和弥八郎、渡辺内蔵太、楢崎弥八郎(享年28)ら十一烈士。
俗論党のために萩で自刃を命ぜられた清水清太郎。幕府の萩征伐の起因の責任を感じて山口で自刃した周布政之助。これら身をもって難に殉じた藩士のために明治29年(1896年)に建てられた慰霊墓所。
◆禁門の変(きんもんのへん)
元治元年7月19日(1864年8月20日)に、京都で起きた武力衝突事件。蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)、元治甲子の変とも呼ばれる。
前年の八月十八日の政変により京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件である。畿内における大名勢力同士の交戦は大坂夏の陣(1615年)以来であり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失するなど、太平の世を揺るがす大事件であった。
大砲も投入された激しい戦闘の結果、長州藩勢は敗北し、尊王攘夷派は真木保臣ら急進的指導者の大半を失ったことで、その勢力を大きく後退させることとなった。
蛤御門(2004年8月31日)
一方、長州掃討の主力を担った一橋慶喜・会津藩・桑名藩の協調により、その後の京都政局は主導されることとなる。
禁門の変後、長州藩は「朝敵」となり、第一次長州征討が行われるが、その後も長州藩の政治的復権をねらって薩長同盟(1866年)が結ばれ、四侯会議(1867年)においても長州藩処分問題が主要な議題とされるなど、幕末の政争における中心的な問題となった。
「禁門の変」あるいは「蛤御門の変」の名称は、激戦地が京都御所の御門周辺であったことによる。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し、今も門の梁には弾痕が残る。
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戦争:禁門の変 出典:Wikipedia |
つづく
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