真田の里、信州旧真田町 真田幸隆 青山貞一 池田こみち 鷹取敦 September 5 2016 Alternative Media E-wave Tokyo 無断転載禁 |
私達は長谷寺を後に、真田幸隆、同夫人、真田昌幸の墓がありましたが、下の家系図の一部にあるように、徳川家康を戦慄とさせた真田一族の中心に真田幸隆がいます。 NHKの真田丸で大活躍するその嫡男の真田信幸、真田信繁は、真田幸隆の嫡男、真田昌幸の嫡男です。 その意味で、真田一族のはじまりは、真田幸隆(別名幸綱)ですので、ここでは、真田幸隆について紹介したいと思います。 出典:真田三代に出会うMAP 上田市 ◆真田 幸隆(さなだ ゆきたか/こうりゅう) 真田 幸隆像 肖像は長野県長野市松代町の長国寺所蔵。 真田 幸隆は、戦国時代の武将です。信濃の在地領主で、甲斐国の戦国大名である武田氏の家臣でもあります。息子三人と共に、武田二十四将にも数えられました。 幼名は次郎三郎、通称は源太左衛門、剃髪して一徳斎と号します。 諸系図では幸隆と記されていますが、確実な同時代史料においては幸綱と記されています、また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、永禄5年頃までは幸綱と名乗り、幸隆は晩年に改めたものであると考えられています(柴辻俊六による)。 「幸隆」の名に関して、『高野山蓮華定院過去帳』では「一徳斎」の道号に伴い「一徳斎幸隆」と記されており、道号は原則として音読みされることから、「幸隆」の読みは「こうりゅう」であるとも考えられています。 出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失いますが、信濃に侵攻した武田晴信に仕えて旧領を回復し、以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いています。 ◆真田幸隆の生涯 信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の豪族・海野棟綱の子として生まれました。あるいは棟綱の娘婿真田頼昌の子として生まれたとされています。 甲斐国では守護武田氏による国内統一が行われ信濃への進出を開始しており、武田信虎は天文10年(1541年)に同盟関係にある信濃諏訪郡の諏訪頼重や、信濃小県郡の村上義清と共に信濃小県郡・佐久郡へ侵攻します。 同年5月23日の海野平合戦により海野一族は敗北して上野へ亡命しています。幸隆が合戦に参加していたことを示す史料は無いものの、共に箕輪城主・長野業正を頼って上野に逃れています。 信虎は海野平合戦から帰国した同年6月14日に嫡男・武田晴信(信玄)により駿河へ追放され、晴信が家督を継承します。晴信はまず翌天文11年(1542年)に独断で関東管領の上杉憲政と和睦して領地を割譲した諏訪頼重を滅ぼすと、本格的な佐久・小県郡侵攻を再開します。 真田幸隆は晴信期の武田氏に帰属して旧領を回復していますが、その帰属時期は諸説ある。『高白斎記』に拠れば、幸隆は調略を用いて佐久で抵抗を続ける望月氏の一部を武田方に臣従させたといいます。 江戸時代初期の『甲陽軍鑑』に拠れば、天文17年(1548年)の上田原の戦いに板垣信方の脇備として参戦しています。一方、江戸時代に成立した真田家史料では、『真武内伝』が天文13年説とともに武田家の足軽大将である山本勘助(菅助)の推挙があったとする伝承を伝え、『沼田記』が天文14年説、『滋野世記』が天文15年説を伝えています。 初期の軍役は10騎程度と推定する説があり動員兵力は300〜400人程度と考えられるが功名を重ねた後年は200騎程であっただろうとされている。 近年の研究では、猪坂直一は諏訪氏の娘(諏訪御料人)が武田晴信の側室となる際に禰津氏の養女となっていることから禰津氏が真田幸隆を推挙したと推測して天文12年説を提唱し、柴辻俊六は武田の佐久侵攻と平行して相模の後北条氏が関東へ侵攻し、関東管領である上杉憲政を天文15年(1546年)4月に河越夜戦で上杉勢を上野から駆逐していることから、幸隆の帰属を天文15年としています。 真田 幸隆イメージ 武田氏に臣従した後は、信濃先方衆として軍役を務め、村上方の望月氏の調略などを行っています。天文19年(1550年)7月には小県郡諏訪に知行を約束されており、同年9月の戸石城(砥石城)攻めは幸隆の要請にもよるものと言われています(柴辻による)。 戸石城攻めで幸隆は村上方の清野氏や寺尾氏などを調略しますが、戸石崩れ(砥石崩れ)と呼ばれる大敗で一時は失敗します。しかし翌天文20年(1551年)に再び戸石城攻めが行われ、『高白斎記』に拠れば幸隆の調略で同年5月26日に城はわずか1日で攻略されたといいます。 天文22年(1553年)、葛尾城が落城した村上義清は越後へ逃れ、幸隆は旧領を完全に回復します。義清は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、甲越両国は信濃の領有を巡って対峙し、川中島の戦いを展開することとなります。幸隆は対長尾(上杉氏)の最前線に置かれることとなり、引き続き真田本城を本拠地とし、戸石城番を兼ねました。 この頃、関東へ進出した後北条氏は上野で上杉憲政を庇護した越後の長尾氏と対峙しますが、幸隆は天文23年(1554年)に甲相駿三国同盟に基づく北条氏康の吾妻郡在城を求める出兵要請を受けており、永禄4年からはじまる西上野侵攻など関東方面の戦略に関わっていたと考えられています(柴辻による)。 弘治2年(1556年)9月8日には埴科郡東天飾城を攻略し、小山田虎満(備中守)とともに城番を務めます。『軍鑑』に拠れば、永禄2年(1559年)に晴信が出家して信玄と名乗ると、自身も剃髪して一徳斎と号したといいます。 『軍鑑』によれば、永禄4年(1561年の、越後上杉氏との第4次川中島の戦いでは、嫡男・真田信綱とともに妻女山の上杉本陣への夜襲に加わっていたといいます。川中島の戦いの後、武田信玄は西上野侵攻を開始しますが、武田氏に提訴されていた吾妻郡内での鎌原氏と羽尾氏の所領抗争は、双方が真田の同族でもあることから、幸隆が調停に関わっています。 永禄6年(1563年)には羽尾氏を支援した上杉方の斎藤氏の居城・岩櫃城を、永禄8年(1565年)には獄山城を、永禄10年(1567年)には白井城を攻略しています。近年の柴辻俊六らの研究によると、嫡男・信綱と共に、武田氏の上野攻略の拠点・箕輪城代であった時期もあるようです。これは譜代衆並みの扱いです。 永禄10年(1567年)、病気のために家督を信綱に譲って隠居していたとされています。このため、信玄の駿河侵攻や西上作戦には加わらず、もっぱら信濃北部及び上州方面の抑えとして活動しました。 天正2年(1574年)5月19日、戸石城で病死した。享年62。墓所は長野県上田市真田町の曹洞宗真田山長谷寺にあります。 下は、長谷寺(前ブログ)にある真田幸隆らの墓です。 中央が真田幸隆、左が幸隆夫人、右が真田昌幸の墓です。真田幸隆の嫡男が真田昌幸、真田昌幸の長男が真田信之、次男が真田信繁(幸村)となります。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-GW 下は真田幸隆の人物と逸話です。 ◆人物・逸話 佐田幸隆の智略と功績は信玄に高く評価され、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えることを許されました。 武田家中でも一目置かれていたと言われており、戦国三弾正の一人として、「攻め弾正」の異名で呼ばれています。ただし現在のこうした幸隆像は、19世紀前半に近世の松代藩主真田氏の業績を記した『先公御事蹟稿』などを土台にしており、真田家の主張を前提として過大評価されたものであるともされています。 真田家の旗印である「六文銭」は三途の川を渡るための船賃という不吉な意味ですが、真田幸隆はかつて仕えていた山内上杉家を見限り、身命を賭して武田家に仕えて家名を残す覚悟で、この旗印を用いたとされています。 ◆真田氏の家紋 六連銭 結び雁金 洲浜 江戸時代の真田氏の定紋は『寛政重修諸家譜』によると「真田銭」とも呼ばれる「六連銭」です。 俗に「六文銭」とも「六紋連銭」ともいう。おもに六連銭は戦時の旗印として、「結び雁金」「州浜」はそれ以外の場で使われましたが、徐々に六連銭の使用頻度が高くなり、六連銭以外の紋の使用頻度は低下したが、替紋として引き続き使用されました。 真田氏が六連銭を用いたのは、幸綱(幸隆)が武田氏に臣従した際との逸話が残されています。 真田氏の源流である海野氏は滋野氏嫡流を名乗り、滋野氏の家紋である「月天七九曜」にちなみ「月輪七九曜」を家紋にしていたことがわかっています。 一方、江戸時代に岡部藩として存続した駿河安部谷の安部氏や越後長尾家(後の上杉家)の記録にある上州吾妻郡の羽尾氏、「長倉追罰記」に記載された羽田氏など、海野氏流を名乗る支族の家紋(旗印)に六連銭やその類似紋「六連点」(ろくれんてん)が登場します。 これらは幸綱が武田氏に臣従する以前から用いていた痕跡があり、真田氏を含む海野氏流支族の六連銭は、本家の海野氏からの継承ではないかと思われます。 現在のところ、中世海野氏が六連銭を用いた史料は確認されていませんが、日本家紋研究会は『関東幕注文』に羽尾、大戸など海野一族が「六れんてん」を用いていること、江戸旗本海野家が六連銭を本紋としていること、現在の海野姓で地域を問わず広く六連銭が用いられていることから類推して、「六連銭は真田氏独占の家紋ではなく、信濃国の大族滋野氏から出た海野氏の代表家紋の一つであろう」としています。 江戸時代には、真田幸村を取り上げた物語や真田氏の武勇を題材にした講談などの影響で「六文銭=真田」と認識されるようになります。江戸時代や明治時代の浮世絵などでは、大坂の陣において真田幸村(信繁)の部隊が、「六文銭の旗」を掲げて徳川家康の本陣を襲撃する場面が描かれています。これは2016年からはじまったNHKの「真田丸」でも同じです。 しかし、「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵)の真田隊の旗としては「総赤に金線」の旗が描かれ、旗紋は描かれていません。その一方で、六連銭が描かれた総赤の切裂折掛の幟旗がありますが実際の使用については詳らかではありません。 つづく |