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真田の里、信州旧真田町

真田昌幸


青山貞一  池田こみち  鷹取敦
September 5 2016
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真田の里、信州上田 2015-5, 2015-7
@ 大笹の関 E 角間と真田史跡 J 真田信綱と真田昌輝 O 幸隆と昌輝の墓
A 角間渓谷 F 山家神社 K 信綱寺の黒門 P 真田昌幸
B 岩屋観音 G 真田神社 L 馬頭観音とねじ行事 Q 実相院
C 猿飛岩 H 長谷寺 M 歴史の丘 R 実相院の観音堂
D 真田十勇士 I 真田幸隆 N 信綱寺 S 瀧水寺と観音堂

◆真田昌幸 (さなだ まさゆき)

 ここでは、信綱寺を建立した真田 昌幸について紹介します。真田 昌幸は御存じのように真田信幸(信之)、真田信繁(幸村)の父親です。
 
    信綱寺を建立した真田 昌幸は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名です。

 甲斐の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の二代に仕え、武田氏滅亡後に自立しました。

 織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となりましたが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵されました。

 上田合戦で二度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られますが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。

 軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像として現在でもよく知られています。


出典:真田三代に出会うMAP 上田市


・出自

 天文16年(1547年)、真田幸隆(幸綱)の三男として生まれました。幼名は源五郎です。

 昌幸は三男であり、同母兄に真田信綱、真田昌輝がいたため、生まれた時点で真田家の家督相続の権利はありませんでした。

・武田信玄の時代

 天文22年(1553年)8月、甲斐武田家への人質として7歳で甲斐国へ下り、武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わりました。

 昌幸は永禄年間に信玄の母系・大井氏の支族である武藤家の養子となり、「武藤喜兵衛」を称し足軽大将に任じられ、その軍役は騎馬15騎、足軽30人と伝えられています。

 永禄7年(1564年)頃、山手殿(山之手殿、信幸、信繁らの母)を妻に迎えています。山手殿は公家・菊亭晴季の娘とされていますが、菊亭晴季の生年などから否定的見方がなされており、出自には諸説があります(これはNHKの「真田丸」でも疑義となっています)。

 初陣は『軍鑑』によれば、永禄4年(1561年)9月の第四次川中島の戦いと言われ、足軽大将として武田家奉行人にも加わったと言われています。昌幸は15歳であり、元服前後の年齢で出陣していた可能性も否定はできません。


出典:上田市真田地域自治センター

 永禄9年(1566年)春、甲府一蓮寺で歌会が開かれた際、奥近習衆として信玄の配膳役を勤めました。永禄10年(1567年)11月、武田勝頼の嫡男・信勝が生まれた際、山県昌景・馬場信春・内藤昌豊(昌豊)・土屋昌続(昌次)と共に信玄の使者として高遠城の勝頼の下に出向いています。

 昌幸以外の顔ぶれはいずれも武田家の譜代宿老・重臣クラスであり、この頃の昌幸は武藤家を継いで既に重臣クラスかそれに準ずる地位にあったと見られています。

 永禄12年(1569年)10月6日、北条氏康・氏政・氏照親子との三増峠の戦いでは先陣の馬場信春への使番を務めました。『軍鑑』によれば北条軍との戦いで一番槍の高名を挙げたとされています。

 信玄は昌幸の父・幸隆にも劣らぬ才能を見抜いていました。『軍鑑』によれば、元亀元年(1570年)に武田軍が伊豆に侵攻して韮山城を攻めている時、北条氏政が援軍を率いて箱根を越えて三島に着陣したので、信玄は決戦を主張します。これに状況を見極めるべきではと慎重論を唱えた馬場信春に、「信玄の両眼の如き者たちを物見に派遣しておる」と信玄は答えました。

 諸将が信玄の両目に比肩される武将は誰なのかと訝しんでいると、まもなく曽根昌世と真田昌幸が帰還して報告を、その両名が両眼であることがわかりました。この話に出てくる昌世がそうであるように、昌幸も、父と兄の信綱、昌輝と並び、武田二十四将にも数えられる事があり、父と兄弟三人が武田二十四将に数えられるような家は、この真田家だけです。

 なお、信玄の晩年には武田家の奉行人に列されており、元亀3年(1572年)2月4日の佐久郡岩村田の竜雲寺宛の竜朱印状の奉者として確認できます。

・武田勝頼の時代

 元亀4年(1573年)4月、信玄が病死すると家督を継いだ武田勝頼に仕えました。

 天正2年(1574年)には父・幸隆が死去。この時、既に真田氏の家督は長兄・真田信綱が継いでいましたが、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が討死したため、昌幸は真田氏に復して家督を相続しました。

 これには武田家の重臣で川中島の海津城主であった高坂昌信の支援があったとされ、勝頼も昌幸の復姓と家督相続を認めたとされています。なお、昌幸も長篠合戦には参加していましたが、勝頼旗本衆として参加していたため、戦死は免れていました。


川中島百勇将戦之内:拾六才初陣真田喜兵衛昌幸(歌川国芳作)
 
 真田氏の本拠の展開は戸石城を中心とした一帯を掌握したことを第一の画期としており、居館を核としていますが、山城(詰の城)・寺院・市町などはいずれも多元的で家臣の集住はほとんど見られないことから、昌幸の支配領域では兵農未分離のまま、在地の中小領主層が戦国期以来の郷村支配を続けており、上田に移住するまで昌幸は、小県郡と西上野に独自の領域支配を展開していくことになります。

 天正6年(1578年)3月、越後の上杉謙信死後に御館の乱を経て甲越同盟が成立しますが、この時の上杉景勝との交渉は親族衆の武田信豊・譜代家老の小山田信茂・勝頼側近の跡部勝資らが担当しており、昌幸は蚊帳の外に置かれていました。この同盟成立により、天正7年(1579年)9月に昌幸は勝頼の命令で北条氏政の所領であった東上野の沼田領へ侵攻しました。

 昌幸は沼田衆を調略によって切り崩し、叔父の矢沢頼綱に沼田城を攻めさせ、一方で現在の利根郡みなかみ町にある名胡桃城の鈴木重則と小川城の小川可遊斎を誘降させて両城を手に入れました。そしてこれらを拠点にして沼田城を攻撃しましたが、北条氏邦が援軍に駆け付けたために撤退しました。

 天正8年(1580年)閏3月から沼田城攻撃を再開し、金子泰清や藤田信吉らを投降させ五月に沼田城を開城させました。この時、同時に利根郡みなかみ町にあった猿ヶ京城も攻め落としています。

 天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康連合軍による甲州征伐が開始され本格的な武田領国への侵攻が行われました。江戸期編纂の文書に拠れば、このとき真田昌幸は武田勝頼に甲斐国を捨てて上野国吾妻地方に逃亡するように進言し岩櫃城へ迎える準備をしていましたが、勝頼は郡内領主・小山田信茂の居城である岩殿城を目指して落ち、その結果途中で信茂の裏切りに遭って最期を遂げることになったと言われています。

 武田氏滅亡後、天正10年4月8日、昌幸は織田信長から、旧領のどの部分かは不明だが安堵をされ、織田政権に組み込まれ、織田氏の重臣・滝川一益の与力武将となり、また沼田城には滝川益重が入りました。昌幸は次男の信繁を人質として滝川一益に差し出しています。

・豊臣政権時代

 天正13年(1585年)冬、次男の信繁が上杉景勝の人質から、盟主である豊臣秀吉の人質として大坂に出仕し、昌幸は豊臣家に臣従しました。

 天正14年(1586年)5月25日には北条氏直に沼田城を攻撃されるが撃退しました。7月家康が昌幸征伐のために甲府に出陣します。しかし8月7日に秀吉の調停を受けて真田攻めを中止。その代わりに11月4日、秀吉の命令で昌幸は家康の与力大名となりました。

 天正15年(1587年)2月に上洛。3月18日に昌幸は小笠原貞慶とともに駿府で家康と会見し、その後上坂して大坂で秀吉と謁見し、名実ともに豊臣家臣となりました。

 天正17年(1589年)には秀吉による沼田領問題の裁定が行われ、北条氏には利根川以東が割譲され昌幸は代替地として伊那郡箕輪領を得ます。この頃、昌幸は在京していましたが、11月北条氏家臣の猪俣邦憲が名胡桃城を攻め、これが惣無事令違反とみなされました。この名胡桃城奪取事件の際、昌幸から同城代に任命されていた鈴木重則は昌幸に対して責任を取る形で自害しました。この名胡桃城奪取事件は天正18年(1590年)の小田原征伐の原因となります。

 小田原征伐に際しては、天正18年(1590年)1月8日に秀吉から3か条の条目を与えられ、。3月上旬には上杉景勝・前田利家ら北陸の豊臣軍と共に北条領の上野に攻め入り、北条家重臣の大道寺政繁が守る松井田城を攻めました。この小田原征伐の間、昌幸は秀吉・石田三成らと相互に情報交換を繰り返しており、松井田城包囲中に三成宛に「上野国中に悉く放火仕る」と報告しています。

 松井田城攻略後は上野における北条家の属城を次々と落とします。石田三成の指揮下で大谷吉継らと忍城攻めに加わったと伝えられ、浅野長政らと持田口攻めを担当しましたが甲斐姫らに撃退されています。

 北条家が降伏すると、家康は関東に移され、関東の周囲には豊臣系大名が配置されて家康の牽制を担っていました。昌幸は秀吉から旧領を安堵され、同じく家康牽制の一端を担いました。なお安堵された領地の内、沼田領は嫡子の信幸に与えられ、信幸は家康配下の大名として昌幸の上田領から独立しています。

 文禄元年(1592年)、文禄の役では肥前名護屋城に在陣しました。昌幸は秀吉の命令で500人の軍役が課されており、16番衆組として徳川家康ほか関東・奥羽諸大名の中に編成されました。
 
 大坂に帰陣した後、渡海しなかった代償として昌幸らには秀吉の隠居城である伏見城の普請役の負担を命じられまし。そのため昌幸は上京してその指揮を務め、資材や労働力を負担したが、この間に豊臣秀頼が生まれたため、一応は完成していた伏見城の更なる拡張工事を命じられ普請に当たっています。

 昌幸は普請役では知行高の5分の1の人数負担が割りふられており、その人数は270人を数えています。この軍役や普請の負担の功労により、文禄3年(1594年)11月2日に秀吉の推挙で信幸に従五位下伊豆守と豊臣姓、信繁に従五位下左衛門佐と豊臣姓が与えられました。なお、信繁はこの頃になると昌幸の後継者としての地位を固めつつありました。

・関ヶ原合戦

 慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が死去します。死後の豊臣政権においては五大老筆頭の家康が台頭し、影響力を強めました。

 慶長3年(1598年)6月から慶長5年(1600年)7月までの二年間にわたり、昌幸の上田領での発給文書は皆無であり、この頃は上京していたと推測されています。昌幸は表向き家康に従っていたようであり、家康が大坂城西の丸に移ると、昌幸も他の諸大名に伴って伏見から大坂に移る支度をしている旨の書状を国許にいる信幸に向けて送っています。

 慶長5年(1600年)7月、家康は出仕を拒否する上杉景勝に討伐軍を起こして関東へ下り、在京していた昌幸もこれに従っています。家康の留守中に五奉行の石田三成が挙兵し、諸大名に家康弾劾の十三ヵ条の書状を送り多数派工作を始めます。

 昌幸は下野国犬伏(現在の栃木県佐野市)で書状を受け取ったと言われます。この時、昌幸は信幸・信繁と去就を決めるため会議を開き、昌幸は宇多氏を通じて三成と姻戚にあった関係から次男・信繁と共に西軍に、信幸は正室の小松姫が本多忠勝の娘である事を理由に東軍に与することとなり、真田家存続のために父子訣別しました。

 上田城へ引き返した昌幸は、その途上で、信幸の居城・沼田城を奪おうと画策し、沼田の留守を預かっていた小松姫に、「孫の顔が見たい」として開門を請いましたが、小松姫は昌幸の思惑を見抜いて丁重に拒絶。昌幸は、「さすが本多忠勝の娘」と笑って沼田を通り過ぎたという話が『滋野世記』他の後世の編纂書で伝えられています。

 7月から8月にかけて、昌幸は豊臣系大名(西軍)と書状での交信を繰り返しています。ただ8月10日の書状を最後に交信は確認されておらず、昌幸も大坂の西軍も戦備に追われていたものと推測されています。決起後の三成が、真田氏に発給した書状のうち、七月晦日付の昌幸充書状に、「三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、沼田越に会津へ送り届けて欲しい」(真田宝物館所蔵文書)と頼んでおり、石田と上杉の仲介をしていたことがわかります。

 そして家康の3男・徳川秀忠が率いる約38,000の部隊が江戸を発して中山道を下り、9月6日(10月12日)には上田城攻略を開始、昌幸は2,000の兵力で篭城して迎え撃します(第二次上田合戦)。秀忠はまず、真田信幸と本多忠政を使者にして昌幸の帰順を勧告しています。

 しかし昌幸はこの交渉で帰順すると思わせぶりな態度を見せながら土壇場になって態度を翻して抗戦の意思を示して秀忠を挑発。秀忠軍を城攻めに集中させる手をとりました。昌幸は信幸が上田の支城である戸石城に攻めてくると、信幸に功を挙げさせるためと同族の流血を避けるため、同城の守備を担当していた信繁に城を放棄させて上田に撤退させました。

 昌幸は徹底した籠城策を取り、時には出撃して奇策を用いて秀忠軍を散々に翻弄し、秀忠は城攻めに手を焼いて9月9日に小諸に撤退しました。この際の徳川軍の惨敗ぶりは徳川方の史料であるにも関わらず「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」とまで伝えられている。

 そこへ8月29日付で中山道制圧の任にあった秀忠軍は家康から上洛を命じられ、上田攻略を諦めます。この時、上洛を命じる家康の使者は利根川の増水で到着が遅れ、秀忠軍は9月15日(10月21日)の関ヶ原の戦い本戦に遅参することになります(よって上田合戦は本戦遅参の原因ではありません)。

 ただ、一方で『真田家文書』では従軍していた信幸に対し秀忠は8月23日付の書状で昌幸の籠もる上田城を攻略する予定である事を伝え、小県郡に集結するように命じている上、小山を出陣してからかなりのんびりした行軍を重ねて小諸には9月2日に着陣しています。

 その後、関ヶ原での石田三成敗戦の報が届いてもすぐには降伏せず、海津城主・森忠政の家臣である城代・井戸宇右衛門配下の兵の守る葛尾城に対して上田城から9月18日と23日の2度に渡って信繁を出撃させて夜討ちと朝駆けの攻撃を加えています。しかしながらもはや西軍の敗北は明らかで同月中には徳川からの降伏・開城要請に応じました。

配流

 関ヶ原の戦後処理において、徳川家康より昌幸・信繁父子には上田領没収と死罪が下されます。昌幸は討死覚悟で籠城する決意を固めますが、東軍に属した長男の信幸(後の信之)とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、高野山(その後九度山)への蟄居が決められました。

 信濃上田の真田領に関しては信幸に与えられ、信幸は沼田27,000石、上田38,000石、加増30,000石の合わせて95,000石を領する大名となり、真田家の存続に尽くしました。

 昌幸は慶長5年(1600年)12月13日に上田城を発して高野山に向かいました。昌幸の正室は上田に残留し、次男の信繁とその妻子ら16人が従いました。昌幸の去った上田城は徳川方に接収され、家康の命令を受けた諏訪頼水らによって破却されました。なお信之と別れの対面をした際に、恐ろしげな目からはらはらと涙を流し「さてもさても口惜しきかな。内府(家康)をこそ、このようにしてやろうと思ったのに」と無念の胸中を語ったと伝わっています。

 高野山での昌幸の配所は1里ほど麓の細川という場所でした。しかし、間もなく配所は九度山(現・和歌山県九度山町)に代わります。信繁が妻を伴っていたため「女人禁制」の関係で代わったとも、冬の高野山の寒さに耐えかねて代わったとも言われています。

 なお、流人ではあるが昌幸・信繁の屋敷が別々に造営され(真田庵)、家臣の屋敷も近くに造られるなど、普通の流人よりはかなり厚遇されていました。昌幸の生活費に関しては国許の信之、関係の深かった蓮華定院、和歌山藩主の浅野幸長からの援助で賄っていました。しかし生活費に困窮し、国許の信之に援助金を催促するため10年余の間に20余通の書状を出しています。このことからも、昌幸が上田を去った後も、信之との関係が疎遠にならず、親密な仲を維持していた事が伺えます。

・最期

 10年余り続いた流人生活は昌幸の気力を萎えさせ、晩年の3月25日付(年次不明)の信之宛書状では「此の一両年は年積もり候ゆえ、気根くたびれ候(中略)、ここもと永々の山居、よろず御不自由御推察なさらるるべく候」とあります。

 また配流当初には信之を通して赦免運動を展開し、慶長18年(1603年)3月15日付で国許の信綱寺へ宛てた書状があり、その内容から赦免されて国許に帰還する希望を持っていたことがわかります。また国許の家臣との関係も親密で、家臣が昌幸を頼って九度山に逃れてきた事もあるほどです。

 最晩年の昌幸は病気がちでした。信之宛の書状では信之の病気平癒の祝言を述べると共に自らも患っている事を伝えています。また書状では「此の方別儀なく候、御心安くべく候、但し此の一両年は年積もり候故、気根草臥れ候、万事此の方の儀察しあるべく候」とあり、さらに「大草臥」と繰り返しており、配流生活は年老いた昌幸を苦しめました。


善名称院、昌幸を祀った真田地主大権現

・墓所

 昌幸の葬儀に関しては不明です。死後、遺体は九度山に付き従った河野清右衛門らによって火葬にされ、慶長17年(1612年)8月に分骨を上田に運んだといいます。墓所は長野市松代町松代の真田山長国寺で、上田(長野県上田市)の真田家廟所である真田山長谷寺に納骨された経緯が記されています。また九度山(和歌山県伊都郡九度山町)の真田庵にも法塔が造立され昌幸墓所とされており、後に尼寺である羅陀山善名称院が開かれています。別称の真田庵というのは、大安が建立した善名称院の事で、いつの頃からか、後世に真田庵と呼ばれるようになりました。

・人物像

知略・統率力
 昌幸の人物像を紹介すると、「昌幸卒去」の項に死に臨んで信繁に対し、昌幸は九度山幽閉中に家康が近い将来豊臣氏を滅ぼすことを予期していたと言われ、その際には青野ヶ原(大垣市を中心とする西美濃一帯・関ヶ原とほぼ同地点)で徳川軍を迎撃する策などを画し、徳川軍が攻めてくれば巧妙に撤退しながら隙を見ては反撃し、最後は瀬田の唐橋を落として守り、多くの大名を味方に付けるように策す事を遺言したとされています。ただこの作戦は寡兵で多勢の敵軍に何度も勝利した楠木正成が採用した策略や陽動作戦そのものです。

 昌幸の策略は常に少数の味方で大兵力を抱える敵を破る事にありました。『真武内伝』では「古今の英雄で、武略は孫子呉子の深奥を究め、寡をもって衆を制し、神川の軍前には碁を囲んで強敵といえどもものともせず、その勇は雷霆にも動じない」と評しています。同書によると昌幸は策略において常に楠木正成を手本にしていたとされています。また策略だけではなく、家臣や領民を糾合して大敵に当たった昌幸の統率力は高く評価されています。

・徳川家を恐れさせた存在

 昌幸の死後、信之はその葬儀に関して家康の側近である本多正信に尋ねました。それに対して正信は昌幸は重罪人であるから幕府の意向を確かめてから対応するようにと忠告しています。死してなお、昌幸は容易に許されなかったのです。

 徳川家康は大坂冬の陣で真田が大坂城に入城した知らせを受けると「親の方か?子の方か?」と訊ねたと言われます。これは「謀将」昌幸の病死を家康を始め当時の武将達が半ば疑っていたことを示唆しています。また、その時家康の手は震えていたと伝えられ、家康がそれだけ昌幸に恐怖していたとされます。実際は昌幸ではなく、当時は無名の信繁と知って安堵したとも伝わっています。
 
 真田昌幸は家康とは相容れぬ関係にあり、反骨精神が旺盛でした。家名存続のために信之を送り込んでいますが、一定の距離を保っています。これは武田信玄の時代から家康と敵対関係にあったためではないかとされ、家康が出陣していないとはいえ二度の上田合戦で勝利し、自領の周囲が家康の脅威にさらされながらも敵対した事は昌幸の信念や自負が強烈だった事が伺えます。

・家臣

 真田昌幸期の真田家家臣団は矢沢氏や常田氏などの一族衆や譜代層を中核としていますが、武田氏滅亡後の旧領国再編成や豊臣大名化の過程で真田氏の領主制が拡大したことにより、徳川家・上杉家とともに武田旧臣の受け皿の一つとなったほか、吾妻領や沼田領支配において寄騎衆となっていた吾妻衆や沼田衆、小県領支配において帰属した領主層などが外様衆として加わっています。

穴山小助  池田重安  池田綱重  石井舎人  出浦盛清  出浦幸吉  大熊朝友  筧十蔵
唐沢玄蕃  河原綱家  鈴木重則  鈴木忠重  根津甚八  野呂兵庫  馬場惣市  堀田興重
望月六郎  矢沢頼綱  矢沢頼康  簗田新八  由利鎌之介 横谷重氏  横谷幸重  
来福寺左京  割田重勝


つづく