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中山道、信州 宿場探訪

下諏訪民俗資料館

下諏訪宿概要

青山貞一 Teiichi Aoyama   池田こみち Komichi Ikeda
8 October, 2015
独立系メディア
E-wave Tokyo
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信州 宿場探訪 (下諏訪宿・諏訪大社編)
1)下諏訪探訪 2)下諏訪の概要 3)下諏訪宿本陣(岩波家) 4)下諏訪宿と温泉
5)下諏訪宿本陣(かめや) 6)歴史民俗資料館概要 7)資料館 宿場と生活1 8)資料館 宿場の浮世絵
9)資料館 宿場と生活2  10)資料館 皇女和宮下降 11)昼食・山猫亭
12)諏訪大社とは 13)諏訪大社下社秋宮 14)下社秋宮 御柱(祭)  15)諏訪大社上社本宮1
16)諏訪大社上社本宮2 17)上社本宮 御柱(祭)  18)諏訪大社上社前宮 19)上社前宮 御柱(祭)
20)諏訪大社下社春宮 21)下社春宮 御柱(祭) 22)旧和田峠

◆下諏訪町立歴史民俗資料館

 下諏訪宿の本陣そして街道やその周辺の景観、町並みなどを視察した後、私達は下諏訪町立歴史民俗資料館に向かいました。

 この下諏訪町立歴史民俗資料館は、下諏訪宿のかつての旅籠などの住宅を使い江戸時代の宿場町の歴史や民俗に関連した文物をたくさん展示していました。

 資料館にいらした係の男性に伺うと、もともとは入場料をとっていたそうですが、100−200円程度の入場料を取るよりは、多くの町民、観光客にみてもらいたいということで入場は無料にしたそうです。

 入館して分かったのですが、展示物が非常に多く、かつ保存、管理もしっかりとされている。しかも写真撮影は自由など、私達のような宿場や歴史文化を現地調査を行っている者にとっては大変ありがたい措置と言えます。しかも、その男性が実質学芸員を兼ねており、何でも質問に答えてくれました。


下諏訪町立歴史民俗資料館の看板
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16

 下諏訪町立歴史民俗資料館は宿場の真ん中にあります。中山道から少し脇道を入り降って行くと木戸があり、開館中の札がありました。いかにも民家のイメージです。


下諏訪町立歴史民俗資料館の入口
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-8-16



下諏訪町立歴史民俗資料館の入口
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16

 下は展示物の概要です。@宿場の絵や写真、A旅の携帯用具、B中山道69次錦絵、C皇女和宮ご下降資料、D水戸天狗党合戦資料、E赤報隊相楽総三資料などが展示物であることが分かります。

 この現地報告では、@からCを中心に報告します。


下諏訪町立歴史民俗資料館の案内板
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16

 下は資料館の庭にあったポンプのようなものです。とくに説明はありませんでした。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16

 この左から資料館に入ります。資料館はかつての旅籠を使っており、木造二階総建てです。


下諏訪町立歴史民俗資料館の中庭
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16


◆宿場の絵や写真、旅の携帯用具

 最初は宿場の絵や写真、旅の携帯用具です。

 以下は下訪宿宿の解説です。

 下ノ諏訪宿は諏訪大社の下社、秋宮の門前町として、また温泉や温泉宿として発展しています。下ノ諏訪集落は、もともと「湯之町」として室町時代中期頃から発展し、江戸時代になると街道の整備とともに町並みもととのってきました。下ノ諏訪宿は中山道69次宿にひとつとして大変賑わったとあります。

 また宿場の町並みは、長さの全長が約530m、甲州街道中の分をあわせると実に約960mにも及んでいたそうです。この間、私達は中山道の宿場町を20箇所近く視察してきましたが、これほどの規模の宿ははじめてです。

 さらに宿場の中心は「綿之湯」あたりとされています。そこに問屋と本陣が置かれたとあります。これはまさに、先に紹介した本陣そして問屋である岩波家と亀屋を指しています。


下ノ諏訪宿の概要
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16

 先に紹介してきたように、下ノ諏訪宿は当初温泉や温泉宿の「湯之町」として発展してきました。下は江戸時代の温泉付きの旅籠としての下ノ諏訪宿の絵です。混浴の湯もあります。


温泉を兼ねた宿
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-8-16

 下は茶屋の客引き女と旅人です。宿場には、本陣、脇本陣、問屋、旅籠などとともに茶屋もありました。宿泊はせず一服する場所としてどの街道の茶屋も繁盛したようです。


茶屋の客引き
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16

 飯売(盛)女は、江戸時代、街道の旅籠屋で旅人の給仕や雑用などをした女性を言います。彼女らの年期奉公の証文には、涙なしにはよめないものもあります。しかし、宿場の盛衰には影響を与えていました。
とあります。

 江戸に向かって下ノ諏訪の次の和田宿の学芸員から,往事の中山道宿場における飯盛女(めしもりおんな)について、詳細な説明を受けたことがあります。飯盛女は、江戸幕府公認の娼館の公娼に近い存在でした。それぞれの宿の飯盛女の数は幕府により決められていましたが、なかには、もぐりでそれを大幅に上回る宿もあったようです。


飯売(盛)女
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16 

 下は温泉宿の風景です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16


 以下はWikipediaからの引用です。

◆飯盛女(めしもりおんな)または飯売女(めしうりおんな)

 近世(主に江戸時代を中心とする)日本の宿場にいた、奉公人という名目で半ば黙認されていた私娼です。その名の通り給仕を行う現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者[注釈 1]も指しており、一概に「売春婦」のみを指すわけではありません。

 また「飯盛女」の名は俗称であり、1718年以降の幕府法令(触書)では「食売女」と表記されています。

 17世紀に宿駅が設置されて以降、交通量の増大とともに旅籠屋が発達しました。これらの宿は旅人のために給仕をする下女(下女中)を置いていました。

 もともと遊女を置いていたのを、幕府の規制をすり抜けるために飯盛女と称したという説もあります。また、宿駅間の客入りの競争が激化し、下女が売春を行うようになったという説もあります。

 当時、無償の公役や商売競争の激化により、宿駅は財政難でした。客集めの目玉として飯盛女の黙認を再三幕府に求めていました。

 一方、当初は公娼制度を敷き、私娼を厳格に取り締まっていた幕府でしたが、公儀への差し障りを案じて飯盛女を黙認せざるを得なくなったのです。しかし、各宿屋における人数を制限するなどの処置を執り、際限のない拡大は未然に防いでいました。

 1772年には千住宿、板橋宿に150人、品川宿に500人、内藤新宿に250人の制限をかけています。

 また、都市においては芝居小屋など娯楽施設に近接する料理屋などにおいても飯盛女を雇用していました。料理屋は博徒など無法者の集団が出入りし、犯罪の発生もしくは犯罪に関係する情報が集中しやすいのです。

 その一方で、目明かし(岡っ引)などが料理屋に出入りし、公権力との関わりをもっていました。この料理屋には飯盛女が雇用されていましたが、これは公権力への貢献のために黙認されていたと考えられています。


神奈川県は藤沢市の永勝寺境内にある、飯盛女の墓。藤沢宿の旅籠小松屋が建てたものである
 

出典:Wikipedia
 

つづく