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私学図書館協議会主催の全国総会が福岡市早良区西新にキャンパスがある西南学院大学であり、私自身、東京都市大学にある3つの図書館全体の館長をしていることもあり、2010年9月9日(木)〜10日(金)、福岡に出かけ会議に出席するとともに、会議終了後の11日と12日の土日は佐賀県北部を短訪した。 その昔、福岡県北部は<筑前>、佐賀県北部は<肥前>の国であった。そこで、論考のタイトルは<初秋の筑前・肥前>である。初秋とはいえ、今年は東京ほどではないにせよ桁外れの猛暑。滞在中、最終日を除けば、筑前・肥前はカンカン照りの好天であった。 ところで会議が開催された西南学院大学のチャペル(礼拝堂)は数100名を収容可能な大講堂でもある。大学が配布した資料の中に、「元寇防塁」(げんこうぼうるい)があった。大学のキャンパスの中に「元寇防塁」があるというのだ。実際、チャペルの隣にある第一号館のビルを建造した際に防塁が発掘されており、それより前に道を隔てた体育館の横でも防塁が発掘されており、現在、国指定の史跡となっている。 周知のように、鎌倉時代、アジアから欧州に至る一大モンゴル帝国を築いたチンギス・ハーン(ジンギスカン)の息子、フビライが10万以上の軍勢を率い黄金の国、日本を配下に置こうと、朝鮮半島の高麗を経由し日本を2回にわたり猛攻撃してきた話は日本史ではあまりにも有名だ。 日本では、モンゴル帝国の一回目の襲来を「文永の役」(ぶんえいのえき・1274年)、二度目の来襲を「弘安の役」(こうあんのえき・1281年)と呼んでいる。 いずれの蒙古来襲も、折からの台風による暴風と高波の「支援」もあり撃退され、最終的に一大蒙古軍勢は撃退された。 「元寇防塁」の「元」(=大元)は、モンゴル帝国、「寇」は攻めてくること意味する。一方「防塁」は、それを「防ぐ」ために石や土などを使ってつくる「塚、壁、柵」を意味する。 仰々しく解説すれば、「元寇防塁」は鎌倉時代に北部九州の博多湾沿岸一帯(筑前地区)に築かれた石による防塁である。蒙古襲来(元寇)に備え石や土で築かれた防御のための一種の柵である。「元寇防塁」は中山平次郎の命名であり、石築地(いしついじ)が本来の呼び名であるという。 文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)から700年以上たった今日に、「元寇防塁」が何と、西南学院大学のキャンパスに残っているというのである。 下の写真は西南学院大学早良キャンパスの第一号館の中庭にある「元寇防塁」である。一階、二階から見ることができる。本来の場所はここではなく、少し離れたところにあり、また上部は大部分壊れていたそうだが、復元、移設したとのことである。 西南学院大学早良キャンパスの第一号館の元寇防塁。1階で撮影。 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.9 つづく |