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初秋の肥前歴史短訪
A唐津城下町絵図

青山貞一 

17 September 2010

独立系メディア「今日のコラム」
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@唐津 「虹の松原」へ
A唐津城下町絵図
B唐津城下町の水辺散策
C唐津城下町の水辺今昔
D唐津城下町の町田川界隈
E唐津の古い町名と歴史的建築物

 9月11日(土)は午前7時に起床。今日も天気は上々。今日の予定は、以下の通り。かなりハードなスケジュールだ。この予定は東京であれこれ考え練ったものである。

 路線バスや定期船のスケジュールにあわせ徒歩で移動する。何しろ路線バスは1時間に一本程度、馬渡島へゆく定期船は3時間に一本しかない。しかも少ない情報で調べると、馬渡島に渡ってからも、バスはもとよりタクシーもない。また馬渡島からの帰りは呼子港でなく名護屋港に行くこととしたが、果たして名護屋港から名護屋城跡までどうやって行けばよいのか、東京ではわからなかった。

 そもそも以下の予定をわずか1日でこなすこと自体無謀かもしれないが、初秋とはいえ日は長い。最後は何とかなるだろうと出発した。

 ・午前中 <虹ノ松原ホテル>→<唐津>を徒歩で移動 約40分
 ・午前中 <唐津>で朝食
 ・午前中 <唐津旧市街>を徒歩で視察 約2時間30分
 ・昼    <唐津>→<呼子>へ路線バスで移動 約35分
 ・昼    <呼子>を徒歩で視察 約1時間
 ・午後   <呼子>→<名護屋>→<馬渡島>へ定期船で移動 約45分
 ・午後   <馬渡島>で昼食後、徒歩で島内散策 約2時間
 ・午後   <馬渡島>→<名護屋>へ定期船で移動 約35分
 ・午後   <名護屋>名護屋城県立博物館まで徒歩で移動 約1時間
 ・夕方   <名護屋>城博物館及び名護屋城跡を散策 約2時間30分
 ・夕方   <名護屋>→<呼子>→<唐津>を路線バスで移動 約1時間
 ・夕方   <唐津>を散策後<虹ノ松原ホテル>に徒歩で移動 約1時間

 以下は9月11日に私がまわる主なまちや島の概要である。とくに馬渡島は九州在住のひと、いや福岡県、さらに佐賀県人でもほとんど行っていないような島である。東京からの一人旅がどうなるかワクワクだ!

唐津は唐津城を中心とした城下町。朝鮮唐津など唐津焼でも全国的に有名だ。

 呼子(よぶこ)はイカ釣り漁業の拠点のまち、朝市で有名なまちだ。池田さんから定期的にいただいているイカ・シュウマイはこの呼子から送られてくるものだ。

 馬渡島は佐賀県北部(肥前)の離小島の中では最大面積の漁師の島。ひとりの隠れキリシタンが渡り、現在では約600人の島民の約半分がカソリックの信者になっているとのことで、小さなカソリックの教会があるという。

 また「元寇」との関連でも馬渡島に監視台が残っているなど長崎県の五島列島の島々同様、歴史文化でも興味津々の島である。

 名護屋は、天下を統一した豊臣秀吉が中国明、朝鮮侵攻の拠点として居城を置き、全国各地の大名、家臣らがそれぞれ陣を設けた歴史的場所である。いわゆる文禄の役、慶長の役の日本側一大拠点として有名である。現在、城や陣はなく石垣跡があるだけだが、佐賀県が名護屋城県立博物館を名護屋城跡の一角に置いている。

 午前8時過ぎ「虹の松原ホテル」を徒歩で出発。まずは唐津の中心市街まで歩く。


虹ノ松原ホテルの玄関

 虹ノ松原ホテル周辺も松原。


虹ノ松原ホテルのアプローチ
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11

 歩いて数分で、シーサイドホテル前を通過。


宿泊先のすぐとなりにあるシーサイドホテル
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11

 さらに数分で下の写真にあるロイヤルホテルに到着。


虹ノ松原の西はずれにあるロイヤルホテル
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11

 この後は、347号線から279号線づたいに唐津城に向かってひたすら歩く。


まずは唐津城まで歩く。約25分。
出典:グーグルマップ

 下は279号線から見た松浦川とそこに架かる松浦橋である。右側が唐津市街となる。


松浦川に架かる松浦橋。対岸は和多田
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11

 279号線をひたすら西に向かうと松浦川の河口に架かる<鶴舞橋>に出る。その対岸には下の写真のように、朝日に映える唐津城と石垣が見える。なかなかどうしてすばらしい位置に城がある。

 鶴舞橋の下を流れるのは松浦川。もともと城側と虹ノ松原側は陸続きであったが、寺沢広高が唐津城を築城した際、切り離され、松浦川が唐津湾に注ぐようになった。今流に言えば、巨大な公共土木事業である。一方、虹ノ松原を造成したのも寺沢広高である。
 

279号線に架かる端から見た唐津城
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11

 下は鶴舞橋を渡ったところにあった江戸末期の「唐津城下町絵図」に描かれた唐津(舞鶴)城である。タイルに焼き付けられた元の絵図は傷みがひどく、多数のシミ、汚れがあったので、青山がCG技術を駆使し修復を試みた。上の写真に見える石垣が下の写真の右側にあたる。


江戸末期の「唐津城下町絵図」にみる唐津城
影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11

 下は虹ノ松原を含む東唐津である。水嶋村とある。私が宿泊した「虹ノ松原ホテル」は、下図の二里ノ松原と書いてある右端に相当する。


江戸末期の「唐津城下町絵図」にみる東唐津、虹ノ松原西部
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11

 下は、上の2枚を含む江戸末期小笠原版時代に書かれた「唐津城下町絵図」の全体絵図である。かなり埋め立てられ地形が改変されているとはいえ、現在とそれほど地形、道など地理は変わっていないことがわかった。また唐津の町の骨格、輪郭もほぼ現在と大きく変わっていないこともわかる。上(北)には台形の大島も見える。右下の湾に見える部分は松浦川の河口である。


江戸末期の「唐津城下町絵図」にみる唐津
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11

 鶴舞橋を渡り切り、少し西に行った市営駐車場から撮影した唐津城の天守閣である。


青空に映える唐津城
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11


唐津城概要
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11

唐津城

 佐賀県唐津市東城内にあった城である。別名は、舞鶴城。唐津市街の北部に位置し、松浦川が唐津湾に注ぐ河口の左岸、満島山に位置する。唐津湾に突き出た満島山上に本丸が配され、その西側に二の丸、三の丸が配された連郭式の平山城である。

 北面は唐津湾に面するため、海城ともいわれ、萩城とともに現在も直接海にそびえる石垣がみられる。松浦川の右岸には国指定特別名勝の虹の松原が広がり、満島山を中心に鶴が翼を広げたように見えることから舞鶴城とも呼ばれる。
 
 江戸時代初期の慶長7年(1602年)に築城され、江戸時代を通じて唐津藩の藩庁となった。廃城後、本丸は舞鶴公園となった。二の丸・三の丸跡は市街化している。現存する遺構としては石垣、堀があり、模擬天守、復興の櫓や門が建てられ、石垣・堀が復元されている。

 文禄4年(1595年)豊臣秀吉の家臣・寺沢広高がこの地に封ぜられた。広高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の外様大名となった。慶長7年(1602年)より本格的な築城を行い、慶長13年(1608年)に完成した。

 築城に際し東唐津側と地続きであった満島山を切り離し、松浦川がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更した。また、秀吉の死後、廃城となっていた名護屋城の遺材を使用し、九州各地の諸大名の助力を得て築城した。柳川堀、佐賀堀、肥後堀、薩摩堀など普請に協力した大名の領地名が堀の名に残されている。

 二の丸に藩庁御殿が建築され、三の丸は侍屋敷となっていた。天守は天守台までしか建築されなかった。築城当初は天守が存在していたといわれることもあるが、寛永4年(1627年)の幕府の記録には天守の存在は記されていないほか、天守の存在を示す資料は確認されていない。天守を描いた絵図や設計図もなく、現在の天守は慶長期の様式で建築されていたと想定して昭和41年(1966年)に造られたものである。

 広高は松浦川の流路変更に見られるように土木事業に長けており、防風林として松原の保護育成を行った。これが日本三大松原として今日に残る虹の松原となっている。

 広高の子の堅高は、天草領に構えていた富岡城が島原の乱の際に一揆側に攻められた際、その責任を取らされ天草領4万石を没収された。堅高は、正保4年(1647年)に江戸藩邸で自殺し、また嗣子がなかったために寺沢家は断絶となった。

 以後、譜代大名5家が入れ替わった。寺沢氏が改易となると一時天領となったが、慶安元年(1649年)播磨国明石城主大久保忠職が城主となった。

 延宝6年(1678年)大久保氏が下総国佐倉城に転出し、代わって同地より大給松平乗久が入城。元禄4年(1691年)大給松平氏が志摩国鳥羽城に転出し、同地より土井利益が入城。

 宝暦12年(1762年)土井氏が下総国古河城に転出し、三河国岡崎城より水野忠任が入城。文化14年(1817年)に、後に天保の改革を行った水野忠邦が出世目的に遠江国浜松城に転出を希望し、陸奥国棚倉城より小笠原長昌が入城、以後明治維新まで小笠原氏の居城となった。

 明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、払い下げにより建造物が解体された。明治10年(1877年)舞鶴公園として整備、開放された。昭和41年(1966年)文化観光施設として5層5階の模擬天守が築かれ、門・櫓も同時に再建された。

 平成元年(1989年)唐津市役所前に肥後堀と石垣を復元。平成4年(1992年)二の丸跡に時の太鼓を復元。平成5年(1993年)市役所付近に三の丸辰巳櫓が復元された。

出典:Wikipedia

寺沢 広高

 永禄6年(1563年) - 寛永10年4月11日(1633年5月18日))は戦国時代の武将、江戸時代初期の大名。肥前国唐津藩初代藩主。正成、定政とも名乗った。

 はじめは父と共に豊臣秀吉に仕える。文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵に際しては肥前国名護屋城の普請を務め、出征諸将や九州大名への取次を担当し、また長崎奉行にまで出世した。貿易統制から朝鮮に出兵した日本軍の補給や兵力輸送の任を務めた。小西行長と共にいわゆる「武断派」から憎まれた。

 秀吉没後は徳川家康に近づき、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。豊臣政権の九州取次であったことから、実権を握った家康から島津氏に対する戦後処理の交渉を仲介するなどしたが、時と共に取次の役割は家康家臣に委ねられたので取次権力を失った。

 戦後にその功によって天草4万石を加増された。唐津城を築城し、唐津藩12万石を領する大名にまで出世し栄華を極めた。唐津や天草の豪族は弾圧されたが、その結果、唐津は安定し繁栄した。その一方天草では彼の死後、島原・天草一揆が発生し、次男の堅高は失政の責任を問われ天草を没収、改易された(後に自殺)。

 墓碑は唐津市鏡の鏡神社境内にある。墓所は地元では志摩様(しまさま)として慕われ、毎年春、桜の花見の時期に小宴が催されてきた。

 なお、佐賀県唐津市に広がる防風林・特別名勝の虹の松原は寺沢広高の手によるものである。



出典:Wikipedia

小笠原 長昌

 寛政8年11月3日(1796年12月1日)- 文政6年9月29日(1823年11月1日))は、陸奥国棚倉藩の第3代藩主。肥前国唐津藩の初代藩主。忠知系小笠原家9代。

 棚倉藩第2代藩主・小笠原長堯の六男。正室は水野忠光の娘。官位は従五位下。主殿頭。子は幕末の老中で有名な小笠原長行(長男)、娘(森忠徳正室)など。幼名は篤三郎。津八郎。

 六男だったが、兄がいずれも早世したために世子となり、文化9年(1812年)に棚倉藩主として家督を継いだ。

 文化14年(1817年)に棚倉から唐津へ移封されるが、棚倉時代の莫大な借金のために藩財政が窮乏化していたうえ、移封による金も賄えなかったため、それを補うために領民に献金を求めたり、「御国益方役所」を設置したりして財政再建を図ったが、効果はなかった。また、唐津焼に白紋の雲鶴を作らせたのは長昌である。

 文政6年(1823年)9月29日、28歳の若さで死去。実子・長行は幼少だったため、養嗣子の小笠原長泰が後を継いだ。墓所:東京都文京区本駒込の竜光寺。

出典:Wikipedia

つづく


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