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◆日本への蒙古来襲 モンゴル帝国(大元)の国王フビライ・ハーンは、このように何度も日本に使者を送ったものの、すべて日本側に無視される。 フビライは激怒、文永11年(1274)1月、朝鮮の高麗に対し日本侵攻を目的に船の建造とを命ずる。3万5千人の工匠や人夫が朝鮮各地から動員され、突貫工事をもって半年間で完成させた。 建造した船は、大小900艘と報告されている。全工事費は高麗の負担とされたことから高麗経済は壊滅的に疲弊する。 そしてフビライは通商要求を何度となく拒絶した日本に対し、ついに文永11年(1274年)、高麗兵を中心に約28,000人の兵力で第1目の遠征を実行する。日本側ではこれを文永の役と呼んでいる。 文永の役(イメージ) NHKの「蒙古襲来の衝撃 〜三別抄と鎌倉幕府」の一部 文永の役(イメージ) NHKの「蒙古襲来の衝撃 〜三別抄と鎌倉幕府」の一部 たまたま博多湾と今津湾をおそった暴風、高波もあり勇猛な蒙古軍は撤退を余儀なくされたものの、日本側は蒙古の執拗で激烈な攻撃に防戦一方となっていた。 下の絵図は、蒙古来襲絵詞に描かれた元軍と戦う竹崎季長(右側の馬に乗っている武将)である。 |
元軍と戦う竹崎季長 出典:宮内庁三の丸尚蔵館所蔵
にもかかわらず、鎌倉幕府は「文永の役」後の交渉でも、モンゴル帝国側の使者を殺害するなど、強攻策一辺倒で対応した。だが、同時に鎌倉幕府は、再度の来襲に備えることを余儀なくされたのである。 こうして、鎌倉幕府は本格的な「異国警護」に着手、翌建治2年(1276年)に異国征伐として高麗出兵を計画するとともに、蒙古軍の来襲に備え九州各国の御家人に石築地を築造させたのである。この石築地の築造こそ、元寇防塁に他ならない。 ◆元寇防塁 鎌倉幕府はモンゴル帝国、すなわわち元の来襲(=蒙古来襲)に備え、筑前北部海岸(=今の博多湾と今津湾全体)、約20kmにわたり元寇防塁を築造することになる。 ・位置 元寇防塁が築かれた位置は、下の地図にあるように、西は今津から東は箱崎までの約20kmとされている。私が視察した西南学院大学の防塁は<西新>である。 元寇防塁の想定される20kmの位置(今津から箱崎まで) 出典:西南学院大学、元寇防塁 ・築造 築造は当時の九州地方の各国の御家人に指示し、区域を定めて防塁を短期間に築造する。 大隅国の石築地賦役文書によれば、武家領や本所一円地を問わずに田1反あたり1寸の割合で石築地役が賦課されたという。 弘安4年(1281年)の第二次遠征(弘安の役)までに防塁の一部は完成しており、元軍は博多への上陸を断念、志賀島に船団を停泊させたという。元の対日遠征の途絶後も異国警護体制は持続し、工事や破損箇所の修復が行われている。 防塁工事は鎌倉幕府滅亡の前年にあたる元弘2年(1332年)まで行われている。 ・構造 防塁の高さ、幅員は平均して2メートルある。 総延長は、西は福岡市西区今津から東は福岡市東区香椎までの約20kmに及ぶ。 防塁の内部には小石を詰め、陸側に傾斜を持たせて海側を切り立たせている。築地には楯を並べて旗を立て、河口や波打ち際には乱杭が設けられた。 下は西南学院キャンパスに残る防塁の側面推定図と復元写真である。 西南学院大学にある元寇防塁の構造推定図 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.9 西南学院大学にある元寇防塁 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.9 西南学院大学早良キャンパスの第一号館の元寇防塁 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.9 なお、下の絵図は、蒙古来襲絵詞に描かれた防塁である。武将らが防塁の上に乗っている様が描かれている。 つづく |
蒙古来襲絵詞に描かれた防塁 出典:宮内庁三の丸尚蔵館所蔵