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■名護屋城跡及び陣屋跡 一方、博物館設立目的の2つ目である特別史跡「名護屋城跡並びに陣跡」の保存整備だが、名護屋城は豊臣秀吉が朝鮮侵攻、すなわち文禄・慶長の役に際し出兵拠点として築いた城である。 まず、以下に名護屋城の概要について記す。 @1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死で諸大名が撤退するまで、7年の間大陸侵攻の拠点となった。 A名護屋城の面積は約17ヘクタールにおよび当時、大坂城に次ぐ規模を誇っていた。 B名護屋城の周囲には実に160人以上にのぼる諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が参集していた。 そして現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されており、博物館がそれら特別史跡の保存と整備に当たっている。 名護屋城図屏風の一部 出典:佐賀県立名護屋城博物館 ※肥前名護屋城図屏風のWeb 上の名護屋城図屏風は、博物館が所蔵しているものだが、それ以外に群馬県の個人が所蔵しているもがある。 両者を学芸員が徹底比較した「名護屋城図屏風の世界」というカラーパンフレットを博物館が300円で販売していたので購入し、帰りに飛行機でしっかり見た。比較の視点を含めなかなか面白かった。 下の地図は、名護屋城周辺に構築された160人にのぼる諸大名の陣屋のうち、主なものの位置である。現在は<特別史跡指定陣屋跡>となっており、その大部分が公開されている。 下はグーグルマップそしてグーグルアースで見た名護屋地域を中心に呼子の一部を示したものである。多くの陣跡が今なお残っていることが分かる。 左端にあるスティックをマウスで操作すると<拡大・縮小>、<南北東西移動>、<3次元立体化>が可能である。また<地図>、<地形図>、グーグルアースによる<3次元立体図>なども簡単に展開できる。 お試しいただきたい! |
以下、Wikipediaをもとに<名護屋城>について解説しておく。 ■名護屋城 豊臣秀吉画像 出典:佐賀県立名護屋城博物館 名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点の一つであった。 ここにはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城であった垣添城跡があり、豊臣秀吉は大陸への進攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を計画した。 名護屋城天守台跡 出典:佐賀県立名護屋城博物館 名護屋城図屏風に見る名護屋城 出典:群馬本名護屋城図屏風 築城当時の名護屋城の様子 出典:名護屋城・城下町復元模型/名護屋城博物館常設展示室 加藤清正、寺沢広高が普請奉行となった。九州の諸大名を中心に動員し、突貫工事で僅か8ヶ月後の文禄元年(1592年)3月に完成した。 規模は当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なものであった。本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などを配し、本丸北西隅に5重7階の天守が築かれた。城跡からは金箔を施した瓦が出土しており、派手好きの秀吉らしく戦争の為に構えた城郭であっても絢爛豪華であったことが伺える。城郭の周辺には各大名の陣屋が配置された。 三ノ丸南東隅櫓台 出典:佐賀県立名護屋城博物館 徳川家康本陣跡 出典:佐賀県立名護屋城博物館 西国衆を中心に総勢15万8000の兵が9軍に編成され、4月1日に小西行長・宗義智率いる第一陣が朝鮮半島へ出兵したのを皮切りに、名護屋を出発した諸隊は壱岐・対馬を経て朝鮮に渡っていった。 秀吉は京都聚楽第を3月26日に出発し4月25日に当地に到着している。以後大政所の危篤時を除いてこの地が本営となる。文禄の役では最終的に20万以上の兵が名護屋から朝鮮に渡った。当地には西国衆の渡海後も東国衆と秀吉旗本衆約10万の兵が駐屯している。多くの人員を養うには水源が足りなかったようで、水不足が原因の喧嘩が絶えなかったという。 朝鮮半島で戦線が膠着すると、翌文禄2年(1593年)4月には講和交渉が開始されるが、交渉が破談すると秀吉は、再び慶長2年(1597年)2月から14万人を朝鮮半島へと上陸させた。 名護屋城大手門跡 出典:Wikipedia この慶長の役でも、補給・連絡の中継地として名護屋は重要な役割を果たした。慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が没したために全軍撤収し名護屋城もその役割を終えた。 出兵の期間中、秀吉が当城に滞在したのは延べ1年2ヶ月であった。 ところで下は、木下延俊陣跡である。博物館の一角から外に出てこの木下延俊陣跡を視察出来る散策路がある。 木下延俊陣跡 出典:佐賀県立名護屋城博物館 下の図は、博物館のドアから外に出て名護屋城跡に行く途中にある木下延俊陣跡散策道の全体図である。木下延俊は、天正5年(1577年)に木下家定の三男として生まれている。木下は豊臣秀吉の正室おね(北政所、高台院)の甥にあたる。 出典:佐賀県立名護屋城博物館 出兵の終わった後、この地は寺沢広高の治めるところとなった。関ヶ原の戦いの後、慶長7年(1602年)広高は唐津城の築城を開始した。 この際に名護屋城を解体しその遺材を使用した。また、この際に二度と城が利用できないように要となる石垣の四隅を切り崩すなどの作業を行われたようだが、本格的に城が破壊されたのは、島原の乱で徳川幕府が謀反の際名護屋城が利用されること恐れたためと、名護屋城を破壊することで幕府が明国や朝鮮と関係を改善する意思表示をしたと見られている。 名護屋城のステレオ空中写真(1977年) 国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を元に作成 上述したように、この日は博物館が入場無料だったので、近くにある名護屋城跡や陣跡に出かけ、また茶屋で食事したり、氷菓子を食べに行ったりしながら、博物館に何度も出たり入ったりしながら、展示物を見ることができた! 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11 夕方、桃山天下一という名の「道の駅」の前で、唐津の大手口センター行きの一時間に一本の路線バスを待って唐津に戻った。 桃山天下一という名の「道の駅」 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11 つづく |