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◆道真の死後〜なぜ、道真は神となったのか? 菅原道真公像 道真の死後、京には異変が相次いだ。 まず道真を陥れたとされる政敵、藤原時平が延喜9年(909年)に39歳の若さで病死する。次に醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥・延喜23年(923年)薨去)、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長3年(925年)卒去)が次々に病死した。 さらには延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ、朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)。 上記を道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返されたという。 清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられるようになる。 火雷天神が祭られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられた。 こうして、道真を「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになる。 太宰府天満宮の鳥居 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.10 やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになっている。なお大分県では大分市大字杉原にある梅の梅園に祭られている。 江戸時代には昌泰の変を題材にした芝居、『天神記』『菅原伝授手習鑑』『天満宮菜種御供』等が上演され、特に『菅原伝授手習鑑』は人形浄瑠璃・歌舞伎で上演されて大当たりとなった。 百人一首 菅家(菅原道真) このたびは幣もとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに これは義太夫狂言の三大名作のうちの一つとされる。現在でもこの作品の一部は人気演目として繰返し上演されている。 ◆飛梅伝説 ”東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ” 道真が都を去る時、愛する梅に想いを託して詠んだ有名な詩である(”春を忘るな”の場合もる)。 道真の追放後、梅は主を慕って一夜にして彼の元へ飛来したといい、それが”飛梅”の由来となっている。千百年余りが経った今もその梅の子孫は太宰府天満宮の本殿前で、早春のたびに花をほころばせている。 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.10 ◆縁切り伝説 俗説であるが、道真は家族や都と離れて左遷された事から ”縁切り”の神様とも言われている。本殿へ続く太鼓橋(下の写真)をカップルで渡ると縁が切れると言われている。天満宮は道真を”縁結び”の神様としているが、逆の神様という伝説もある。また太宰府の名物・梅ヶ枝餅は餡を餅で包んで焼いたもので、”ヤキモチ”にちなんでいるという伝説もある。いずれにせよ、菅原道真は、現在、文道・学問の神として人々の信仰を集めている。 太宰府天満宮の太鼓橋 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.10
◆太宰府駅への参道 このあと、太宰府天満宮から太宰府駅に向かった。以下は参道で見かけた寺、門などである。 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.10 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.10 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.10 下は太宰府駅に通ずる門前茶屋や土産屋である。どの店も太宰府という土地柄にマッチし、なかなか瀟洒な感じだ。 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.10 太宰府のおみやげといえば、梅ヶ枝餅といわれるほど有名な焼餅である。 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.10
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.10 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.10 肥前編に つづく |