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初秋の肥前歴史短訪
G呼子から馬渡島へ

青山貞一 
11 October 2010
独立系メディア「今日のコラム」
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F唐津から呼子へ 
G呼子から馬渡島へ
H隠れキリシタンの馬渡島
I馬渡島から名護屋城博物館へ
J名護屋城博物館
K名護屋城と朝鮮唐津〜窯業と茶の湯〜
Lアナロジーとしての名護屋とドレスデン

◆呼子から馬渡島へ

 呼子を後に、郵正丸で名護屋港経由で馬渡島(まだらじま)に渡る。呼子港の出発は午前10時55分きっちりである。

 馬渡港まで、おおよそ40分の船旅である。馬渡島は玄界灘に面する周囲の海岸は釣りスポットとしても有名で、年間を通して釣り客が多いという。



唐津、呼子、馬渡島、名護屋の位置関係
出典:グーグルマップ

 呼子港を出ると左側に呼子大橋が見えてくる。この島は加部島に渡る大きな斜張橋だ。

 
呼子大橋
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11

 なかなかきれいな斜張橋である。



呼子大橋の斜張橋
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11

 斜張橋をすぎると船は一端名護屋港に寄る。



呼子大橋の斜張橋
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11

 名護屋はその昔、豊臣秀吉が朝鮮侵攻の拠点にした地であり、名護屋城はじめ多くの家臣の陣地や寺があるところだ。船からも大きな寺が見える。


名護屋
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11

 郵正丸は名護屋港を出ると一路、馬渡島に向かう。天気は上々、すがすがしく気持ちの良い船旅である。名護屋港で6名の釣り人が乗船してきた。皆、釣りの達人のようないでたちである。



玄界灘を行く
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11
 
◆馬渡島に到着

 呼子を出向してから名護屋港経由、約40分で馬渡港に11時35分、予定通りに到着した。


馬渡港
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11


大きな地図で見る


出典:玄界諸島の概況、日本財団 図書館

島名 面積(km2 本土までの距離
(km)
人口(人) 世帯数
高島 0.62 2.2 353 123
神集島 1.41 0.6 546 207
小川島 0.92 5.0 552 172
加唐島 2.83 3.5 226 80
松島 0.63 3.2 92 27
馬渡島 4.22 8.0 538 203
向島 0.30 2.3 99 31
離島全体 10.93 - 2,406 843
出典:玄界諸島の概況、日本財団 図書館

 まずは、帰りの船を確認。

 忙しいが帰りは名護屋行き13:00の船に乗る。島にいられるのは1時間ちょっとである。



郵正丸の時刻表
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11

 
昼食の時間となったので、桟橋近くにいた女性に食事ができるところを聞くと、漁港の方を指さしたので、そちらに向かって歩く。途中、タコ取り用のたくさんの壺に出会う。


馬渡島のタコ壺
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11

 漁港まに到着するも、ほとんど人影がない。お店らしきものもまったく見えない。馬渡島には宮の本、野中、冬牧、ふたまつの四つの地区から構成されているが、現在いるところは、宮の本である。。


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11

 私が現在いる宮の本には、学校、診療所、警察官駐在所、商店、漁協、船着場があり、住宅が集中的に建っているので島の中心地といえる。

 下は馬渡島漁港だ。人影がない。


馬渡島の漁港
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11

 ここにもイカ釣り船とおぼしき船があった。


馬渡島の漁港
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11
 

 漁港を過ぎると熊野神社があった。 9月とはいえ、炎天下、熱中症にならないよう、ここで一休み。自販機でお茶を買って水分を補給する。


熊野神社
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11

 その後、炎天下、集落の坂道をかなり登る。やっとのことで雑貨屋を探すが、弁当はないとつれない返事。まるで外国人が来店したような対応で、面食らう(嗤い)。

 聞けば、この島では釣りなどの民宿客用に食事を出すが、それ以外は一切、食堂などはないとのこと。結局、昼食は名護屋城博物館に行くまでとれなかった。

 ここでWebから馬渡島の歴史について少々。

 馬渡島の歴史は、今から約一万年位前から始まっている。先土器時代に始まり、縄文・弥生・古墳時代にかけてかなり栄えたことが、その遺跡と数々の出土品から推察できる。

 奈良時代においても、大陸に近いことから遣隋使・遣唐使、その他大陸への諸使の「風待ち・潮待ち」の島として、大変重要視されていたらしい。神集島、波戸岬、馬渡島を経て、壱岐、対馬、朝鮮、中国への航路として利用されていたようだ。

 平安時代には、美濃国からの源義俊がこの島の領主となる。その後も鎌倉時代、二度にわたる元軍の上陸(元寇)や秀吉の朝鮮出兵の前線基地のひとつとなっている。さらに、江戸時代後期の黒船の見張所が設置されるなど、朝鮮半島、大陸との交渉に必ず浮かんでくる歴史性・国際性豊かな島である。

  そして、天保年間におけるキリシタン有右衛門の来島によって、馬渡島のキリシタンの歴史が始まっている。

 なお、
馬渡島の名前の由来だが、これには2つの説があるという。

 ひとつは、大陸から馬が最初に渡ったので「馬渡る島」から「馬渡島」となったと伝えられる。実際、中世から近世にかけては馬の放牧場として利用されていた。江戸時代は、唐津藩の軍馬放牧場であった。

 もう一つは、源義家公の甥にあたる中近江馬渡の庄人本馬八郎義俊が、白河上皇院政のころ延暦寺僧兵の強訴を防ぎ、えん罪を受け松浦郡に流されこの島に土着し、斑島を馬渡島と書き改めたと言われている。

 現在は「馬渡島」と言うが、その昔は「小島」「斑島」「摩多羅島」「間多良島」などと呼ばれていたときもあったようだ。

つづく


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