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途方にくれ、とりあえず桟橋まで戻ることにした。 途中、タコ壺があった場所まで戻る。 そこでうろうろしていると、漁師っぽい高齢の女性が声をかけてきた。 どこから来たの?と聞くので、東京から福岡経由で来ました、と言う。 えらくびっくりして、自分の子供は島を出ていること、次男がタコ取りをしている漁師であること、そして時間の許す限り、島を自分の軽乗用車ックで案内してくれると言ってくれた。感謝感激である! 何しろ、この島にはバスもタクシーもレンタカーも何もない。時間も限られていたいので、願ったりかなったりである。 おばさんの軽乗用車で島でカソリック教会と観音様を案内してくれることになった。軽乗用車で10分ちょっと坂を上って行ったところに馬渡島カソリック教会があった。 当然、今回、この島に来る前に、東京でかわいらしいきれいなカソリック教会があることを知っていたので、ぜひ、馬渡島カソリック教会だけは行きたいと思っていた。 ということで実はこの馬渡島には、キリスト教にかかわる話と有名なカソリック教会がある。長崎県側の教会群とともに世界遺産の文化遺産に登録する動きもある。 馬渡島では現在、神道と仏教とカトリック、それぞれの教徒が共存しているが、元は神道と仏教だけであった。 カトリックは、江戸時代にキリシタン弾圧を逃れるために長崎県の外海や平戸・五島などから漂流してきた人々によって島に広まったとされている。 おばさんによれば、神道・仏教徒のほとんどが宮の本に住んでいる。 しかし、 野中、冬牧、ふたまつは、江戸以降にできた集落でほとんどの人がカトリック教徒であるという。 野中は江戸時代にキリシタン(カトリック教徒)らが上陸したと語り継がれている場所である。 この地区にはカトリック馬渡島教会が建てられていて、日曜日の朝はたくさんの人が集うという。 下は、軽乗用車で馬渡島カトリック教会である。所在地は唐津市鎮西町馬渡島1767。 馬渡島の天主教教会 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11 馬渡島の天主教教会 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11 ところで、馬渡島の最初のキリスト教信者は文久2年(1861)に長崎の五島列島地方から安住の地を求めて移住した人達であると言われている。 その後、明治12年(1879)11月26日に公布された長崎県外国人遊歩規定改定により神父らの行動が自由となり、外国人神父らによる布教活動が活発化した。そして明治13年8月には最初の洗礼の記録されている。 翌明治14年には馬渡島を担当していた神父が馬渡島の教会建設に着手し明治14年(1881)11月5日に教会が竣工した。 そして昭和4年に馬渡島にあった教会の建物を呼子に移し、馬渡島へは平戸島から旧紐差教会堂の建物を移築再建したとされている。それが現在の馬渡島教会堂である。 下は教会の内部である。 馬渡島の天主教教会内部 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11 建物は長方形をなし中央やや祭壇寄りに切妻屋根を架する脇出入口を張り出して設けているほか、会堂両側面には柱間毎に5個の上部尖頭アーチ形縦長窓が設けられ、各窓は両内開きガラス窓と両外開き鎧戸がセットとなっている。 下は牧師さんが住んでいる家。おばさんはわざわざ牧師さんの家に私が来たことを告げられ、親切にも牧師さんは私に馬渡島のカソリックについての貴重な資料を提供してくれた。 牧師さんの家 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11 下は聖母マリア像。 聖母マリア像 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11 下は教会の一角にあった墓地。日本式の墓石の上に十字架がある。 天主教教会の墓地 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11 以下は、馬渡島カソリック教会の変遷の詳細である。出典は、「福岡教区の教会」 である。
神父さんにお別れした後、女性が自分たちが信者となっている観音堂の集会所に案内してくれた。到着して分かったのだが、女性の自宅はその真ん前であった。女性は毎日、皆で集まり、掃除をした上でお祈りしているとのことだ。 馬渡島の観音堂 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11 馬渡島の観音堂 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11 馬渡島の観音堂の内部 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11 馬渡島の観音堂の墓地 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11 この観音堂には、非常に興味深い逸話というか、話がある。少々長くなるが紹介しよう。 大正7年1月の末、玄海の風が吹き荒れるとき、馬渡島の小学校西側の小屋から出火し、本村の家屋38戸、納屋30戸が一瞬にして灰となる大火事が起きた。玄海の一孤島ということで世の同情より、たくさんの義損金や品物が送られた。 この中に、大阪で木綿問屋を営んでいた泉谷儀三郎・同花子という夫婦がいた。 馬渡島とは何の関係もなかったのであるが、愛知県の80歳になる楓田本真尼に託して蒲団・着物類その他たくさんの品々を寄贈した。この尼は老齢の身であったが、馬渡島まで渡って、一軒一軒丁寧に見舞いされ慰められた。 夜はお説教などをして心を落ち着けられた。この時、観音堂の御仏体が壊れているのを見て、京都まで持ち帰り、自ら阪神の人々に寄付を求めて修理をし、立派になった観音様をわざわざ持参された。 老尼は自らは極めて質素節約をされ、呼子・西唐津間の坂道を歩かれたという。施しのためにはすべてを放出され、その膨大の慈悲によって島の人々を仏の御教に導かれた。 泉谷夫婦は、死ぬまで何回も島を訪れ、孤島に住む子供たちの幸少ない生活に心をよせられ、盆や正月には学用品、玩具、蓄音機、ラジオ、包帯や薬などの医療用具など送られるのであった。 そして3月には雛人形、5月には武者人形にまで。まるで自分の子や孫にやるように、その情のあふれた贈り物を送られた。また、不幸にして、儀三郎は大正14年に死去されたが、花子夫人は昭和6年2月17日の病死まで、各戸に仏像を配布され、観音堂を改築され、御詠歌の本やレコードを送られた。 また、島に水が少ないのを聞き、防水用井戸を2カ所を掘られ、「花の井」と名づけて石碑を立て、水道ができるまではこの水を使っていたそうだ。(今はコンクリートで埋められて井戸はない。ただ、馬渡駐在所の北側に記念碑があります。) さらに、中等学校へ進む者に学費を補助されるなど、島の生活と信仰のためにつくされた。花子夫人が亡くなられてから、観音堂に三氏のご位牌を祭り、また二体の如来像を作って、毎年2月17日には感謝の意をささげていたそうである。泉谷夫妻の子の代まで品物を送るなど交流をしていました。 出典:馬渡島の大火災 http://www.saga-ed.jp/workshop/edq01454/rekishi.htm 今回は時間がなく行けたなかったが、馬渡島には「番所ノ辻展望所」がある。 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11 この展望所は、馬渡島における最高峰で標高は237.9mある。 江戸の幕末、黒船の来襲を恐れていた頃、馬渡りでは、ここに沿岸防備のために遠見番所を設け、黒船を発見すれば烽火をあげ名護屋の大庄屋に知らせ、名護屋からは唐津城まで早馬を走らせていたとされる。 この烽火の跡が展望台のすぐ北側に残っている。また、日露・太平洋戦争の時は壱岐水道の見張所だったそうだ。 番所ノ辻からは、360゜の展望がきき北には約25km隔てて長崎県壱岐が見え、南には約10kmの地点に肥前町向島が見え、東には松島と加唐島が見え、西には長崎県の的山大島が見えるという。 なお、この島には、「チョンギー石」という名のがある。 この石のいわれは、1274年(文永の役)、蒙古襲来のとき二万五千の蒙古軍は対馬壱岐を経て、途中馬渡島にも上陸した。島民はこぞって撃退につとめたが、島の西端 城山に追いつめられ矢玉も尽きてしまった。 一老婆が「石も石、この石一つ」と叫び全身の力で石のひき臼を頭上高く持ち上げ、蒙古兵めがけて投げおろした。それが蒙古兵の大将の頭に当たって蒙古兵は退散してしまったと伝えられている石である。 .... ところで、女性の軽乗用車で私は観音堂から13:00馬渡港発、名護屋港行きの郵正丸が待っている桟橋に向かった。 軽乗用車で島の要所を親切に案内していただいた女性には何度もお礼を伝えた。異国に近いこの地で、これほど親切にされたことに心底感謝の意を表したい。 おそらく女性の心の中には、上記の「花乃井」の伝えがしっかり刻まれているからだろう。女性は他人に新設すれば、まちにでている自分の子供たちも、親切にされるという思いがあると話された。馬渡島でこのよな方に出会ったのは。すばらしいことである。 つづく |