|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
◆弘安の役 文永の役で撤退したモンゴル帝国軍は、蒙古軍に加え、漢・高麗人からなる東路軍および旧南宋軍を主体とする江南軍、合計14万人の軍勢で再度、日本を攻撃してきた。これを日本では弘安の役と呼と呼んでいる。 しかし、このときも暴風、高波でモンゴル帝国軍は多くの兵船を失うとともに、できあがっていた防塁の効果もあり、撤退していったのである。 だが、モンゴル帝国軍は、それでもあきらめず3回目の日本への侵攻準備を進める。しかし、その最中に国王ヘブライが死ぬことで出兵は中止された。当時、モンゴル帝国はその昔のローマ帝国同様、その前線は東アジアだけでなく、中国南部、ベトナム、インドネシアなど東南アジアなど、遠征先で反乱が生じ、激しい抵抗を受けるなどで、兵力全体が疲弊していたとされる。 また、弘安の役のモンゴル側の主体は、モンゴル帝国に組み入れられた南宋や高麗であり、すでに疲れ切っており戦闘意欲も薄かったこともある。 モンゴル型兜1 出典:元寇資料館 モンゴル型兜2 出典:元寇資料館 モンゴル型皮鎧。重量はわずか7kg 出典:元寇資料館 蒙古軍戎衣 出典:元寇資料館 蒙古軍の甲と戎衣 出典:元寇資料館 モンゴル軍が使った弓 出典:元寇資料館 ※元寇資料館(福岡市博多区東公園内)について
下の絵図は、弘安の役における日本軍と元軍との戦い(一部)である。 |
◆元寇以降
元寇防塁は、今津から博多湾域を経由し、香椎までの約20kmに築かれたが、江戸時代に福岡城を築城する際に、石垣の石として防塁の大半が失われたとされている。その意味で現存する防塁は、奇跡的に残った防塁であると言える。 下の写真は9月12日に福岡城跡で撮影した石垣である。 福岡城跡に残る石垣。この石垣に防塁の石が使われている 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.9 福岡城跡の番人? 勇猛な顔のサバトラの猫ちゃん 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.9 福岡城跡に残る石垣。この石垣に防塁の石が使われている 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.9 ◆現存する元寇防塁 埋め立てなどにより鎌倉時代より海岸線が沖へ延びているために防塁が埋没したり風化している部分が多い。しかし、福岡市の今津地区(西区)、生の松原(西区)、西新(百道)地区(早良区)、地行地区(中央区)などは国の史跡として整備され、露出した状態になっているものもあり、約20kmに及ぶ各所でその名残を見ることができる。 現存する元寇防塁の位置図 出典:西南学院大学、元寇防塁 西南学院大学キャンパスには体育館の隣にも元寇防塁(史跡)が残されている。 西南学院大学キャンパスの体育館隣の元寇防塁。右は体育館 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.9 防塁の構造は、設置された区間、場所により異なっている。理由は、短期間に20kmに及ぶ防塁工事を複数の国、御家人が担当したためと考えられている。 たとえば、下は西南学院大学と同じ福岡市早良区藤崎早良警察署北にある防塁。 福岡市早良区藤崎早良警察署北にある防塁 出典:Wikipedia 下は福岡市博多区筥松に残る元寇防塁の史跡。 福岡市博多区筥松に残る元寇防塁の史跡 出典:Wikipedia 下の2枚は、元寇防塁の西端、今津浜に残る防塁である。 今津浜に残る防塁 出典:資料映像 今津浜に残る防塁 出典:資料映像 ◆博多小学校 防塁は博多駅近くにもあった。場所は博多区、現在の地番では福岡市博多区奈良屋町にある博多小学校である。 9月12日、唐津から福岡に鉄道で戻り博多小学校を探した。 小学校はみつかったものの日曜日で博多小学校は休校、同校内には奈良屋幼稚園、奈良屋公民館、敷地内から出土した「元寇防塁」を現状展示する石塁展示室などを備える「石類遺稿展示室」(下の写真)も閉まっていて、残念ながら直接みることはできなかった。 福岡市立博多小学校 出典:福岡市の文化財 なお、以下は「福岡市の文化財」からの引用である。 福岡市立博多小学校の展示室にある「元寇防塁」(推測) 出典:福岡市の文化財 つづく |