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午後1時(13:00)に馬渡港を出た郵正丸は、約30分で名護屋港に到着した。名護屋港は、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、この港から軍船を送っており、歴史上重要な港である。現在の地名は佐賀県鎮西町名護屋である。 名護屋魚港の位置(A)、郵正丸は漁港の南に接岸した。 出典:グーグルマップ 唐津、呼子、馬渡島、名護屋の位置関係 私は呼子→名護屋→馬渡島→名護屋のルートで名護屋に来たことになる! 出典:グーグルマップ 大部分の乗船者は呼子でなく、ここ名護屋で降りた。理由は簡単、呼子は無料駐車場がないが名護屋港近くに無料の駐車場があるからだ。 釣り人たちは釣り具や魚を車に入れ、さっと帰途に向かった。 私だけ港に残されてしまった。 呼子港と違い、名護屋港には何のインフォメーションセンターも、バス停車場も見あたらない。 またもや困り果ててしまった。 たまたま近くにいた男性に、「ここから佐賀県立名護屋城博物館にどう行けばよいですか?」 と聞く。 というのも郵正丸の船長に「名護屋港で下船した場合、歩いて名護屋城博物館までどのくらいかかりますか」と聞いていた。そのとき、船長は30分程度と言っていた。 男性は、「あの階段を登って行く道だろうな」と言う。 指さした道を見ると、かなり急な斜面にある。この道は車は通れない。 私事で恐縮だが、私は重度の喘息患者なので、発作が出なくても、無理に斜面を急いで登ると、ゼーゼーハーハーと気道が狭くなり、発作を誘発する可能性もある。 しかも、その「近道をうまく行っても徒歩だと35分はかかる」と言う。午後2時近くの太陽はまだ灼熱。港から博物館まで山を越えて歩くと、熱中症となる可能性もある。 かといってタクシーもない。路線バスもないようだ。あっても1時間に一本程度だろう。はたと困り果てた! すると、その男性が親切にも私を自分の車で博物館まで送ってくれるという。車なら10分とのこと。 今日は何と次々に親切なひとにで出会えて幸運である! そして佐賀県立名護屋城博物館に着いた! ■佐賀県立名護屋城博物館 下の写真は博物館の玄関である。博物館を訪問したのは土曜日だった。この土曜日は企画展示をしておらず、入館場無料だった。 佐賀県立名護屋城博物館 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11 佐賀県立名護屋城博物館 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11 この博物館は、名護屋城博物館は、 (1) テーマ「日本列島と朝鮮半島の交流史」 (2) 特別史跡「名護屋城跡並びに陣跡」の保存整備 (3) 日韓の文化・学術交流 を三本柱として、事業を展開しているという。 まず常設展示だが、常設展示では、日本列島と「朝鮮半島との交流史」を主題として双方の友好関係を一時中断させた「文禄・慶長の役」と特別史跡「名護屋城跡ならびに陣跡」についてその歴史的位置付けを主な目的にしている。 ■文禄・慶長の役 博物館の2階の展示コーナーでは、かなりのスペースをとって、いわゆる文禄・慶長の役を扱っている。 下の写真はビデオによる文禄の役(1592年)における日本軍の進路の展示である。一番下に名護屋がある。図にあるように名護屋は朝鮮半島の最前線に位置していたことになる。 文禄の役(1592年)における日本軍の進路の展示 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.11 以下は小西行長、加藤清正の釜山からの進路図。 小西行長、加藤清正の釜山からの進路図 出典:Wikipedia 文禄の役・釜山城攻略 『釜山鎮殉節図』(1709年初筆を1760年に模写) 出典:Wikipedia 文禄・慶長の役については、公式には、
とされている。 しかし、名護屋城博物館の学芸員が書き入館者に配布している小論文によれば、慶長2年(1597年)2月の豊臣秀吉による朝鮮国への再侵略(再は文禄に次いでの意味)の命令により、慶長の役(チョンシュチェラン)の目的は、文禄の役に参陣した武将への恩賞として朝鮮半島南部四道を獲得することにあったとされている。 実のところ、文禄・慶長の役は天下を平定した豊臣秀吉が家臣を総動員して行った中国や朝鮮への侵攻(侵略)であると言える。 ※文禄慶長の役の名称について 豊臣政権時から江戸時代後期に至るまでは、この戦役が日本が明の征服を目指す途上の朝鮮半島で行われたものであることから唐入り・唐御陣、あるいは高麗陣・朝鮮陣などの呼称が用いられていた。 幕末から明治初期にかけては朝鮮征伐、征韓などと呼ばれるようになったが、1910年(明治43年)の韓国併合以後は朝鮮人が日本国民とされたことから朝鮮征伐の表現は避けられ、代わって第一次出兵を文禄の役、第二次出兵を慶長の役、併せて文禄・慶長の役という呼称が定着した(他にも朝鮮出兵や朝鮮役・征韓の役という呼び方もある)。 近年では、朝鮮半島が戦場となったため、朝鮮側が受けた被害に関心を持つ研究者を中心に朝鮮侵略と呼ぶ場合もあり教科書記述にもその影響が見られる。また近年では日明戦争と呼ばれることもある。 文禄の役は1592年(文禄元年)に始まって翌1593年(文禄2年)に休戦した。また、慶長の役は1597年(慶長2年)講和交渉決裂によって始まり、1598年(慶長3年)の秀吉の死を受けた日本軍の撤退をもって終結した。 北朝鮮・韓国では当時の干支を取って文禄の役を壬辰倭乱、慶長の役を丁酉倭乱または丁酉再乱と呼んでおり(北朝鮮では壬辰祖国戦争と呼ばれる場合もある)、中国では万暦朝鮮戦争もしくは朝鮮壬辰衛国戦争、朝鮮壬辰衛國戰爭、朝?壬辰?国?争)と呼ばれる。 出典:Wikipedia ところで、名護屋城博物館内で配布されている学芸員による小論文に、「朝鮮日々記」にみる慶長の役があった。 これを読むと、日本ではほとんど知られていないが、豊臣秀吉による朝鮮侵攻は思いの外すさまじいものであり、「朝鮮日々記」にはこの戦争の悲惨な姿が記録されている。 「朝鮮日々記」は慶長の役に従軍した医僧で安養寺の僧、慶念が書いた日記である。慶念は戦乱の中にあって一人の良心ある人間のありのままの気持ちを表現した貴重な記録であり、戦闘に明け暮れた世の中で、平和を愛し、戦争に反対した慶念の思想を知る上で非常に大切な記録である。 その 「朝鮮日々記」によれば、 慶長の役でもとくにすさまじいのは朝鮮の南原城の戦いである。この戦いでは非常に激しい戦闘が行われ、1万人の町が崩壊している。「城の内の人数男女残りなくうちすて、いけ取物ハなし。」と記録している。また「城の外を見て侍れハ、道のほとりの死人いさ(砂)このことし。めもあれられぬ気色也。」と殺戮の凄さ、戦闘の激しさを伝えている。 蛟竜山城(南原山城) 出典:Wikipedia
慶長の役・鳴梁海戦(推定)/制作年不詳 出典:Wikipedia ※ 出兵前後の日本国内への影響について 文禄・慶長の役で出兵中の日本国内では、留守中の大名領地に太閤検地が行われ、豊臣政権の統治力と官僚的な集団が強化された。しかし戦後にはこの戦争に過大な兵役を課せられた西国大名が疲弊し、家臣団が分裂したり内乱が勃発する大名も出るなど、かえって豊臣政権の基盤を危うくする結果となった。 一方で、諸大名中最大の石高を持ちながら、関東移封直後で新領地の整備のために九州への出陣止まりで朝鮮への派兵を免れた徳川家康が隠然たる力を持つようになった。派兵を免れたことが徳川家康が後に天下を取る要因の一つとなった。 五大老の筆頭となった家康は秀吉死後の和平交渉でも主導権を握り、実質的な政権運営者へとのし上がってゆく。 この官僚集団と家康の急成長は、豊臣政権存続を図る官僚集団と次期政権を狙う家康との対立に発展し、関ヶ原の戦い(1600年)に至った。戦いに圧勝した家康は日本国内で不動の地位を得、1603年に征夷大将軍に任ぜられた。こうして泰平の江戸時代が始まる。 また、出兵に参加した大名たちによって連れてこられたり、大名と雇用関係を結んだりして自ら来日した朝鮮人から様々な技能が伝えられた。 朝鮮人儒学者との学問や書画文芸での交流、そして陶工が大陸式の磁器の製法、瓦の装飾などを伝えたことで日本の文化に新たな一面を加えた。その一方、多くの朝鮮人捕虜が戦役で失われた国内の労働力を補うために使役され、また奴隷として海外に売られたこともあった。 出典:Wikipedia 文禄・慶長の役の詳細 ■朝鮮通信使行列絵図 なお、「日本列島と朝鮮半島の交流史」との関連では、3m以上に及ぶ朝鮮通信使行列絵図が博物館の展示物にあった。
下は明国使節団を描いた名護屋城図屏風の一部である。 出典:明国使節団を描いた群馬本の名護屋城図屏風の一部。 または明暦度(1655年)の朝鮮通信使行列絵図の一部であるが佐賀県立博物館のものではなく大英博物館所蔵のものである。 出典:明暦度(1655年)の朝鮮通信使/大英博物館所蔵 以下は名護屋城博物館内で配布されている学芸員による小論文からみた「朝鮮通信使行列絵巻」に関する解説では、「朝鮮国から海路をはるばる渡ってきた朝鮮通信使行の一行は、山城国の掟で海路の旅を終え、陸路を江戸にさらに進むことになる。使節団は1回の来日で500名に至ることもあり、さらに対馬藩や沿道各藩の馬夫、人足をあわせると、3000名に及ぶ行列であったという。」と相当大規模な通信使節団であったことが分かる。 朝鮮通信使行列絵巻 出典:佐賀県立名護屋城博物館 ■日本の植民統治下の朝鮮半島 博物館の「日本列島と朝鮮半島の交流史」コーナーでは、日本が朝鮮半島を植民統治していたとき、日本が作成し朝鮮半島の人々の小中学校教育で使った日本語教科書も展示されるなど、日本と朝鮮半島とのほぼすべての時期の歴史と文物が展示されており大変興味深かった。 植民地時代の教科書(日本語、ハングル) 出典:佐賀県立名護屋城博物館 つづく |