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御笠川を博多駅に向かって歩いていると、川岸にいくつか気になる小さな史跡があった。そのひとつが下の写真にある「濡衣塚参道」である。 御笠川 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.12 御笠川 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.12 濡衣は、濡れ衣を意味する。となれば何かの曰わく因縁がありそうだ! 古跡の解説を見ると、「濡衣塚参道」は、聖武天皇(735年〜749年)の頃、継母に無罪の罪をきせられ死んだ筑前国司の娘を供養したと墓と伝えられている。 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.12 以下が「濡衣塚」の言われである。 聖武天皇の時代、佐野近世なる人物が筑前に国司として赴任した。近世には春姫という美しい娘がいた。近世は妻や春姫とともに筑前に住んだ。 そのうち近世は妻に先立たれ、やがて土地の女を後妻に迎えた。後妻にも娘が生まれたが、後妻は近世が春姫ばかりを可愛がっていると思い春姫にたびたび嫌がらせを行ったた。 ある日、近世のもとに釣り衣を春姫に盗まれたと訴える漁師が現れた。春姫が夜毎にやってきて釣り衣を盗んでゆくと。 これを受け近世が春姫の部屋を覗くと、そこには濡れた衣を引いて眠る春姫の姿があった。逆上した近世は言い分も聞かぬまま、春姫をその場で斬って殺した。 その次の年のこと、近世の夢に現れ二首の歌を詠む女がいた。春姫であった。その夢をもって近世は悟る。あの夜の濡れ衣は寝入る春姫のもとに後妻が着せ掛けたものであったのだと。つまり春姫は無実であったのだと。 その後、近世は春姫を葬った石堂川のほとりに7つの塚を建てて供養した。そして後にに自らの罪を悔い出家し肥前の松浦山に暮らした。 下は、近世の夢枕に春姫の詠んだ歌である。 脱ぎ着するそのたばかりの濡れ衣は長き無き名のためしなりけり 濡れ衣の袖よりつたふ涙こそ無き名を流すためしなりけれ 塚は幾度かの移転を経てやがて、この地に『濡衣塚』として移された。近くにはたくさんの石仏、石像が並んでいた。 なお、この「濡衣塚」は、江戸期の儒学・本草学者、貝原益軒(1630年12月17日(寛永7年11月14日)〜 1714年10月5日(正徳4年8月27日))編纂による史書筑前国続風土記などにも記述が登場している。また明和2年(1765年)、津田元顧によって編纂された「石城志」にある絵図にも「濡衣塚」描かれている。 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.12 さらに、博多駅方向に行くと、下の写真にある大きな石碑があった。 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.12 この石碑は、板碑と呼ばれる中世の石造物で、玄武岩の自然石を用いている。高さは約165cm、梵字が正面3カ所に大きく刻まれている。 最上段は大日如来(バン)、右下が宝鐘如来(アー)、左下が天鼓雷音如来(アク)を表現している。 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.12
なお、この板碑の裏には、康永3年(1344年)の銘が刻まれており、南北朝時代につくられたものであることがわかる。 この板碑は、、本来は聖福寺の西門近くにあったといわれ、江戸時代に御笠川の東に移された。そして、現在の場所へは、御笠川の河川改修工事に伴って2001年(へいせい13年)に移築されている。この石碑は、福岡県指定有形文化財である。 思うに、世に言う「濡れ衣」の語源は、この悲しい史話(伝説)にあるのだろう。大いに勉強になった次第である。 つづく |