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宝当桟橋に江戸末期、明治、昭和初期などの貴重な唐津の水辺のが掲示されていたので以下に紹介しよう。絵図、写真の出典はいずれも唐津市である。 松浦川河口から東唐津方面を望む 出典:グーグルアースより青山が作成 ●18世紀の松浦川河口部河畔(土井氏時代) 古来より松浦川河口部は雄大な水を湛え”唐の津”として栄えた歴史ある地区である。江戸時代末期には石炭を積み出す港、唐津港が河口にできた。明治30年頃に西港ができるまで、唐津港の中心と栄えた。現在、松浦川河口地区は唐津城を眺望できる河川景観に優れた地区として唐津市のシンボルゾーンとなっている。 18世紀の唐津城絵図 土井氏時代 ●松浦橋絵図(明治25年) 江戸の幕政期、松浦川には橋がなく、一般人は新堀(船宮町)と満島(東唐津)の間を渡し船で行き来していた。明治29年、奥村五百子(愛国婦人会の創始者)、草場猪之吉(北九州鉄道、今の筑肥線初代社長)らの尽力により約500mの松浦橋が架けられた。下の絵図では、橋の上を人力車が通り、橋の下流に帆船が見えており、明治時代の松浦川河口の状態を表している。 松浦橋絵図(明治25年) ●昭和初期の松浦川河口 舞鶴公園(唐津城側)から見た松浦川河口。その後、昭和23年に流出する旧松浦橋が見える。また河口には帆船も見える。河口の東唐津側には導水堤防がなく、川口町(現在、東唐津一丁目)には造船所があり、明治時代に建てられた建築物が並んでいる。 昭和初期の松浦川河口 ●河口部のジャンク船(昭和19年、1944年) 太平洋戦争末期の昭和19年の写真。このころ商船は戦争で撃沈され、中国大陸への物資輸送は、それに代わって使われた中国のジャンク船が松浦川河口部に出入りするようになった。 河口部のジャンク船(昭和19年) ●戦後の唐津市街(昭和25年、1950年) 戦後の松浦川河口部の写真である。まちの骨格はほぼ現在と同じだが、鏡山と虹ノ松原の間の地域が現在と大きく異なる。また昭和23年の大洪水で流出した旧松浦橋の痕跡が見える。 戦後の唐津市街(昭和25年、1950年) ●現在の松浦川河口(平成21年10月、2009年) 現在の松浦川の河口部。鏡山から虹ノ松原、唐津城、唐津港方面を望む。松浦川河畔緑地は、唐津城を眺望できる河川景観に優れた場所であるとともに、癒しや憩いの場所として緑地や遊歩道を整備。 現在の松浦川河口(平成21年10月) 手前右が「虹ノ松原」 つづく |