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2012年11月8日(木)の東京都市大学情報メディア学科の「情報化と市民参加」の授業は、「(7)調査報道の実践例!」をテーマにお話ししました。 今日の東京都市大のメディア論の授業では、私が独立系メディアをはじめる大きなきっかけとなりました戦争報道など調査報道の在り方について話しました。 青山がこの間対応してきた「戦争と人間」、「戦争と環境」にマスメディアがどう対応し、してこなかったか、青山が過去20年どう対応してきたかについて、以下の具体的事例をもとに講義しました。 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo (1)戦争が起きる背景、理由、原因 戦争が起きる背景、理由を多面的、定量的に講義 世界各国の軍事費、防衛費、装備費の比較、 軍事関連企業の国際比較、企業別売り上げランキング 世界の軍事支出(アフガン戦争前) 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo 世界の軍事支出(アフガン戦争後、2002年) 英国国際戦略研究所 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo (2)第二次世界大戦、おもにナチス・ドイツによるユダヤ人の強制連行 強制収容、ガス室などでの殺戮 <調査報道内容> 青山、池田が行ったポーランド国内にある8カ所の強制収容所の 現地調査のうち、日本ではほとんど知られていないものをふくめて 写真、図、イラストで紹介 また青山、池田が行ったリトアニアなどバルト三国への現地調査 も紹介した。 ●アウシュビッツ強制収容所 アウシュビッツ強制収容所、英語でAuschwitz Concentration Campの設立時期は1941年4月である。 アウシュビッツ収容所は、その後、1943年11月に3つの施設に分割されている。 具体的にはアウシュビッツ第1収容所(基幹収容所)、通常これをアウシュビッツ収容所と言っている。2つ目はアウシュビッツ第2収容所、通常これをビルケナウ収容所と言っている。さらに3つ目はアウシュビッツ第3収容所、通常これをモノビッツ収容所と言っている。 まずアウシュビッツ強制収容所の有名なゲートを入る。 場所は下の写真にある有名な アウシュビッツ強制収容所のゲート(入り口)近くだ。 撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo アウシュビッツ強制収容所(第1収容所)の全体図 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo 有名なアウシュビッツ強制収容所の入り口 働けば解放されるとドイツ語で書いてある 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo アウシュビッツ博物館の展示物を見る来館者 撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo 撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo 人体焼却施設を背景に 撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo ●ビルケナウ強制収容所 下はアウシュビッツ第1収容所から約3km離れた場所に設置された第2収容所。すなわちビルケナウ絶滅収容所である。ビルケナウはポーランド語でブジェジンカと言う。ここでガス室と大規模な焼却炉を設置して大殺戮を行った。 ビルケナウ強制収容所(第2収容所)の全体図 第1収容所に比べるといかに巨大な施設であるかが分かる 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo 下は有名なビルケナウ強制収容所の門。外から収容所内部に鉄道の軌道が通っている。この上を貨車に詰め込めこまれたユダヤ人が絶望工場に向かって走っていった。 世界的に有名なアウシュビッツ2、ビルケナウ強制収容所の「死の門」 この引き込み線によって100万人以上の人々が強制収容所に 連れ込まれ大部分は帰らぬひととなっている 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo 引き込み線が終わる部分に花が捧げられていた 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo みぞれ交じりの雨が降るビルケナウ強制収容所 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo アウシュビッツII-ビルケナウ強制収容所のガス室と死体焼却施設Vの模型 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo 下は日本であまり知られていないポーランド東部にあるマイダネク強制収容所。その規模は、アウシュビッツより遙かに大きく、設置されたのもアウシュビッツより早い。 ポーランド・マイダネク強制収容所 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo ガス室近くにて 撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S10 2009.3.12 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo ガス室の前で 撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S10 2009.3.12 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo マイダネクに現存する焼却炉群 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo アウシュビッツ強制収容所のものより幅、高さともに大きい ように見えた 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo ●ソビボル、ベルゼックそしてトレブリンカの3つの絶望工場 ポーランド東部地域には、やはり日本人にはほとんど知られていないソビボル、ベルゼックそしてトレブリンカの3つの絶望工場があった。いずれも、ナチスによってほとんど跡形無く破壊されている。現地調査では、いずれも現地まで行ったものの、告知板があるだけで、アウシュビッツ、ビルケナウ、マイダネクのような施設は、跡形ももなかった。 下の地図はマイダネク、ベルゼック、ソビボル、トレブリンカの各強制収容所の位置をしめしている。いずれもウクライナ、ベラルーシュ、ロシア、リトアニアとの国境近くにある。 東ポーランドにおける4大強制収容所の位置 出典:赤丸は青山、 元の地図の出典は http://biega.com/epoland-tour2.html ・ソビボル強制収容所 下はソビボル強制収容所の位置。オランダ、フランス、ドイツ、チェコ、オーストリア、スロベニアそしてソ連のユダヤ人やロマが輸送され、殺害されている。 Source:http://www.sobibor.info/images/reinhard2.gif 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo ソビボル駅から別れた線路がソビボル収容所入り口までのびていた。 ソビボルの敷地にはチューブがありそこに送り込まれた囚人は 出口近くで「処理」された 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo ●ベルゼック強制収容所 ベルゼックでは、強制収容所の設置から最終的な閉鎖までのわずか1年間に40万人にも及ぶユダヤ人をはじめロマ民族、ポーランド人政治犯などが強制収容され、その多くは比較的短期のうちに殺害され、犠牲となっているという。 下はベルゼック収容所の計画図の一部。 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo 以下はベルゼック収容所の絵画。上の図では人体を野焼き、下の図では強制収容された囚人がグランドに集められていることが分かる。 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo ベルゼックは、ルブリン地区SS警察高級指導者オディロ・グロボクニク親衛隊上級大佐(当時)が親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの命を受けて建設を開始した最初のユダヤ人絶滅収容所であった。 ベルゼックが東部の強制収容所として選ばれた理由は、上述したように@はひと気がなく、A鉄道に近い場所であったためであった。これらはアウシュビッツなどとも共通するものである。 ベルゼック強制収容所の入り口は、鉄道のベルゼック駅から分岐した線路を300メートルほど進んだところにあった。 1941年11月から建設が開始され、1942年2月に完成している。 ベルゼックの初代所長には、のちに3大絶滅収容所の総監となるクリスティアン・ヴィルトが就任した。1942年1月のヴァンゼー会議でラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将がラインハルト計画を立ち上げるとベルゼックは改めて3大絶滅収容所の一つとされた。 ベルゼック収容所では1942年3月よりガス室を使っての絶滅作戦が開始されたとされている。 ・トレブリンカ絶滅収容所の概要 トレブリンカ収容所はワルシャワ北東90kmに設けられた強制収容所で、絶滅収容所として悪名高い。トレブリンカに到着した囚人は分別されることなくほぼ全員がガス室送りとなった。 1942年に設立されてから1943年に解体されるまでの1年余りにワルシャワ・ラドム地方のユダヤ人を中心に、約90万人もの人々が犠牲になったといわれている。 教育学者のコルチャック氏、国際共通語エスペラント語の創始者ザメンホフの娘らも 、この場所で収容所の露と消えた。 Sign from Treblinka railway station on display at Yad Vashem Source:English Wikipedia 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo トレブリンカ絶滅収容所のイメージ画 The Willenberg Drawing of Treblinka Source:English Wikipedia 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo トレブリンカ絶滅収容所の全体計画図 出典:Treblinka: Extermination Camp or Transit Camp? By Jurgen Graf 出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo 下は、青山貞一、池田こみちによるポーランド南部、東部のナチスドイツが設置した強制収容所現地調査報告(論考)と総括報告。すべて独立系メディア E-wave Tokyoにある。 つづく |
出典:青山貞一 独立系メディア E-wave Tokyo