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前半 後半 全体 ■2009年3月12日 ポーランド東の3大絶滅収容所、ベルゼックを知る 奇跡的に中世そのままの姿で現代に生き残った要塞都市(現在は世界遺産)、ザモシチ(Zamoc)を歩いたあと、私たちは簡単な昼食をとり、一路、ポーランドとウクライナの国境沿いにあるベルゼック、それにソビボルという2つの強制収容所に向かう。 ベルゼック(Belzec)とソビボル(Sobibor)は、ナチス・ドイツが敗戦前に徹底的な証拠隠滅作戦で施設そのものを破壊したため、現在はアウシュビッツ、ビルケナウそれにこれから行くマイダネクのように博物館的に収容施設、ガス室、焼却炉などの実物が保存、展示されているわけでない。 私たちは昨日同様、ウクライナとの国境近くまで車を飛ばすが、一旦小振りになったみぞれまじりの雨がまたもや激しくなった。ウクライナとの国境近くまで行ったが、時間の関係で折り返しソビボルに向かうこととした。 ベルゼック絶滅工場跡にある祈念碑 以下は調査前及び調査後に調べたベルゼックに関する概要を整理したものである。 ●東ポーランド3大強制収容所とベルゼック収容所 ベルゼック強制収容所は、第2次世界大戦中にナチス・ドイツがポーランド東部ルブリン県のソビボル村においた強制収容所のひとつである。 そのベルゼック(Belzec)収容所は、ポーランドのユダヤ人絶滅(Extermination)を目的としたラインハルト作戦に則って作られた3大絶滅収容所のひとつである。 3大収容所とは、上述のベルゼック強制収容所、ソビボル(Sobibor)強制収容所、トレブリンカ(Treblinka)強制収容所の3つの強制収容所を指す。とりわけベルゼックは3大収容所の中で最初に作られ、他の2つの絶滅収容所のモデルともなったとされる。 ちなみに私は、それにマイダネク(Majdanek)強制収容所を加え、東ポーランドの4大強制収容・絶滅施設と呼んでいる。 ベルゼック収容所は1942年4月に竣工し、以降、閉鎖されるまでの間、ユダヤ人などが大量に輸送されてきて、ガス室などに送李込まれた。 下の地図は4大強制収容所の位置を示している。いずれもウクライナ、ベラルーシュなどとの国境近くにあることが分かる。また3大収容所は、いずれも人里離れたひとけのない地域、さらに鉄道輸送が便利な地域に立地されているという共通点がある。 東ポーランドにおける4大強制収容所の位置 出典:赤丸は青山、 元の地図の出典は http://biega.com/epoland-tour2.html ベルゼックでは、強制収容所の設置から最終的な閉鎖までのわずか1年間に40万人にも及ぶユダヤ人をはじめロマ民族、ポーランド人政治犯などが強制収容され、その多くは比較的短期のうちに殺害され、犠牲となっているという。 下はベルゼック収容所の計画図の一部。 以下はベルゼック収容所の絵画。上の図では人体を野焼き、下の図では強制収容された囚人がグランドに集められていることが分かる。 ベルゼックは、ルブリン地区SS警察高級指導者オディロ・グロボクニク親衛隊上級大佐(当時)が親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの命を受けて建設を開始した最初のユダヤ人絶滅収容所であった。 ベルゼックが東部の強制収容所として選ばれた理由は、上述したように@はひと気がなく、A鉄道に近い場所であったためであった。これらはアウシュビッツなどとも共通するものである。 ベルゼック強制収容所の入り口は、鉄道のベルゼック駅から分岐した線路を300メートルほど進んだところにあった。 1941年11月から建設が開始され、1942年2月に完成している。 ベルゼックの初代所長には、のちに3大絶滅収容所の総監となるクリスティアン・ヴィルトが就任した。1942年1月のヴァンゼー会議でラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将がラインハルト計画を立ち上げるとベルゼックは改めて3大絶滅収容所の一つとされた。 ベルゼック収容所では1942年3月よりガス室を使っての絶滅作戦が開始されたとされている。 ベルゼックの司令部の外に整列するSS ベルゼックを視察するクルツ・フランツ ベルゼック収容所には2ブロック存在し、1ブロックは囚人の到着にかかる事務を担当するブロックで囚人から衣服や荷物をはぎ取り保管するための場所となった。 第2ブロックには、10個のガス室が設置され、他に共同墓地や死体の搬送作業などに当たる労務囚人の住居スペースなども存在したというい。 絶滅収容所であったベルゼックは一般の作業場を設けなかったため収容所としては狭く、縦275メートル、横263メートルのほぼ正方形型の収容所だった。 そのなかに5か所の監視塔があり、機関銃が常にガス室へ向かう囚人たちに狙いをつけていた。看守は20名から30名の親衛隊員と60名から80名のウクライナ義勇軍の兵士で構成された。看守たちは収容所内ではなくベルゼック駅の付近に住居を持ちそこで暮らしていたという。 1942年末になるとポーランドにおけるユダヤ人社会がほぼ壊滅し、またアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所が巨大化したため、ベルゼックの必要性は薄れた。1942年12月をもってベルゼックは活動を停止した。 1942年5月のベルゼック強制収容所の立地図 下の図は、上の1942年5月時点のベルゼック収容所が12月にさらに拡大、拡充されたもの。 9,10,11、12がガス室関連、13が人骨踏粉砕装置となっている。 1942年12月時点におけるベルゼック強制収容所の立地図 ●2005年の映画「ベルゼック」(仮題) ベルゼックやソビボルについては、映画で制作されている。ベルゼックについては、フランスのGuillaume Moscovitz氏が監督している。以下はベルゼックの公式概要。 ショア(ユダヤ人大虐殺)の歴史の中でほとんど忘れ去られたベルゼック。年代的に見て、占領下ポーランドのユダヤ人を虐殺するナチスの計画、ラインハルト・アクション最初の強制収容所である。 完全な撤去が1943年初頭の数ヶ月で行われたが、これはソビボルとトレブリンカの取り壊しの約一年前にあたり、ヨーロッパのユダヤ人虐殺の跡を消し去ろうとするナチスの意向を証明している。 ナチスによる工業化されたユダヤ人大量虐殺は人々の命を奪うだけに留まらず、死体、氏名、住所の抹消にまで及んだ。今日否定主義と呼ばれる動きは、ナチスの虐殺において既に原則であった。虐殺の跡を抹消することは、ユダヤ民族の滅亡計画の一端をなしていたのである。 1960年代末に死亡したルドルフ・レーダーとリュブリンで終戦直後に殺されたヒャイム・ヒルツマンを除いて、証言のためにベルゼックの収容所に帰ってきたものはいない。 監督はこの抹消の後遺症をカメラに収め、我々の現代の暴力をお見せする。破壊のみ残された世界で、過去をどうやって証明するのだろうか。
私たちはみぞれが降る中、ベルゼックからやはりウクライナとの国境沿いにあるソビボル絶滅収容所に向かう。 つづく |