ルブリン県の旗
●ルブリンの歴史
ここでルブリンの歴史について振り返っておこう。というのもルブリン城は現在博物館となっていて歴史に出てくることが絵画など、文物として展示されているからである。
※参照:Wikipediaなど
ルブリンへの最初の定住は6世紀から7世紀に、現在の旧市街のすぐ北にあるチュファルテク地区と、中心部から少し南に離れたジェションタ地区で行われた。
10世紀と11世紀には、チュファルテク地区の集落はこの近辺の商業の中心地となる。12世紀には東からの攻撃に備えて街が強化され、このときあたりから「ルブリン」という名称が使われ始めた。
ルブリンはしばしばモンゴル帝国軍やルテニア人(スラヴ系民族)、Yotvingians、リトアニア人の標的となり、たびたび略奪や破壊された。
1317年に市の設立勅許状を受けた。
1341年、カジミェシュ大王は石造の城と市街地を囲む城壁を建設した。
1370年、カジミエーシュ3世(大王)時代最盛期を迎える。
カジミエーシュ3世(大王)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
※今回の現地調査では、カジミエーシュ大王(Kazimierz Wielki)
の居城跡も訪問した。地名は大王の名をとってカジミエーシュ
ドルニー(村)という。この大王は「民衆のことを常に考え、町を
木造から石造りに変えたモダンな王」として今に語り継がれている。
ポーランドを旅するとあちこちでカジミエーシュという名称を、見る。
ここで「カジミエーシュ大王とは」について次のブログカジミエーシュ村で詳しく触れるのでお読みいただきたい。
1392年、ヴワディスワフ・ヤギェウォはルブリンに商業特権を与え、ポーランド王国とリトアニア大公国の連合成立後は両国間の通商の重要な拠点となる。
1474年にはルブリン地方が統合されルブリン県が設置され、15世紀と16世紀には街は急速に発展していく。
16世紀からはセイム(貴族議会)がポーランドでたびたび開催された。1569年6月26日に開催されたセイムにおいて、ポーランド・リトアニア連合王国の成立が議決された(ルブリン合同)。
下の絵は有名なルブリン合同についてのヤン・マテイコの手になる『ルブリン合同』。この巨大な絵画はルブリン城に掲示されている。
ルブリン合同の絵画 Source:English Wikipedia
◆ルブリン合同の絵画
合同300周年にあたる1869年に完成した。
中央で十字架を掲げているのは国王ジグムント2世アウグスト、その横で調印文書を抱え右手を聖書に置いて跪く黒服の人物は合同推進派のヤクプ・ウハンスキ、その後ろに立つ白い服の人物がマルツィン・ズボロフスキ、ウハンスキの隣でサーベルを握って跪く赤毛の人物はミコワイ・ラジヴィウ・ルディ公爵、左の方で緋色の僧服を纏って椅子に座る聖職者はスタニスワフ・ホジュシュ枢機卿、画面右端で農民の手を引いている白髭の人物は政治思想家アンジェイ・フリチュ・モジェフスキ。ここでやや場違いに登場している農民は、未来のポーランドを象徴している。
Source:English Wikipedia |
1578年には、マウォポルスカ地方での最高位の法廷である王立裁判所が置かれる。
16世紀後半からは宗教改革がルブリンで起こり、ポーランド兄弟団の大規模な信徒集団が市内にあった。
またこの時期にユダヤ人コミュニティーがルブリンに形成された。ユダヤ人たちはナチス・ドイツのホロコーストによってコミュニティーが消滅するまで、市の発展に不可欠な存在として活躍した。
1580年から1764年までのあいだユダヤ人議会が設置され、70名の代議員が租税やコミュニティーに関する重要事項について討議した。
Lublin in 1618、1618年にルブリン
source:English Wikipedia
17世紀、北方戦争でスウェーデンの攻撃にさらされ衰退する。
◆北方戦争(英:the Northern Wars、1655年-1661年)
17世紀に起きたスウェーデンとその他の国々、ポーランド・リトアニア連合(1648年-1667年)、モスクワ大公国(1656年-1658年)、ブランデンブルク=プロイセン(1657年-1660年)、神聖ローマ帝国(1657年-1660年)そしてデンマーク(1657年-1658年、1658年-1660年)との戦争を一纏めにしたときに使われる。
Source:English Wikipedia |
1795年の第3回ポーランド分割の結果、ルブリンはオーストリア領となり、1809年からはワルシャワ公国領、そして1815年からはロシア支配下のポーランド領に組み込まれた。
1719年のルブリン火災、he fire of Lublin, 1719
source:English Wikipedia
下は元の絵画
1719年のルブリン火災、he fire of Lublin, 1719
上記のルブリンの火災に関連し、290年経った2009年6月2日に聖ドミニコ教会で記念式典があったという記事(以下)を見つけた。
出典:http://kultura.lublin.eu/wydarzenia,0,8305.html?locale=en_GB
June 2, 1719 ? June 2, 2009
In one of the side chapels of the Dominican Church there is an unusual
painting "Fire of Lublin." It depicts the city on fire and the
procession of Dominican monks carrying the relics of the Holy Cross. This
event took place on June 2 1719. There was a storm that caused a huge fire
on the suburbs of Lublin.
It seemed that nothing could help, but the Dominicans asked for God's
help and started the procession towards the places on fire. Also rabbis
in the Jewish district prayed. And the miracle happened - the fire was
put out.
On June 2, 2009 we celebrate 290 anniversary of the event. We would like
to invite you to reconstruct with us the atmosphere of that day and take
part in the procession.
We meet at 8:30pm at the Dominican Church, and then go through the streets of the Old Town. The installation on Zamkowy Square reminds us where the fire started and where the damage was the most serious. A Guide will help the participants to feel the atmosphere of the 18th century city.
19世紀はじめ、ルブリンには広場や道路が整備され近代的な建物が多数建設された。
1877年、ワルシャワからウクライナのコヴェリを結ぶ鉄道が建設され、町の工業化に大いに影響を与えた。
1873年には2万8千人強だった人口は、1897年には約5万人へと増える。
ロシアの支配は1915年に終わり、かわってドイツ軍とオーストリア・ハンガリー軍がルブリンを占拠した。
1918年、ルブリンにおいてポーランド共和国臨時委員会が結成され、その年11月に第1次世界大戦が休戦し、ピウスツキを国家主席とするポーランド共和国(第2共和制)が成立する。
両大戦期間中にも街の人口は増加し、ポーランド初の航空機製造工場など企業や工場が設立され街は成長を続けた。
1918年にはルブリン・カトリック大学が開校されている。
撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.13
ルブリンはユダヤ人が多い街でもあり、人口のおよそ40%を占める活発なユダヤ人社会があった。
1939年、ドイツのポーランド侵攻に際しルブリンもドイツ軍に占領され、ラインハルト作戦と呼ばれるポーランド=ユダヤ人絶滅作戦を実行すべくルブリンにドイツ軍司令部が設置された。
1941年には、郊外に巨大なルブリン強制収容所(=マイダネク強制収容所)が建設されている。
町のユダヤ人は旧市街北側のポドザムチェ地区あたりに作られたゲットーに移住させられた。彼らの大半は1942年にベルゼック絶滅収容所で殺害された。
1944年、ルブリンはソ連軍によって解放された。
ソ連が後押しする「ポーランド国民解放委員会」(PKWN)が設立され、ポーランドの首都機能は1945年に再びワルシャワに戻るまでルブリンにあった。
戦後、街の人口はおよそ3倍になり、市街地も大幅に拡大した。新しく開校したマリ・キュリー大学の周りに科学研究施設がいくつか設立され、また大規模な自動車工場が建設されるなど、教育、産業の面でも充実していく。
1980年7月、ルブリンと郊外のシフィドニクの労働者たちが社会主義政権に対するストライキを起こした。このストはのちの「連帯」運動のきっかけともなる。
1980年7月8日、最初のストがオートバイ製造企業のWSKのシフィドニク工場でおこった。ストはルブリンやの周辺地域の工場にも瞬く間に拡がり、鉄道網や市内交通機関はマヒした。
ついには企業数150、労働者あわせて約5万人がストに参加した。スト参加者たちは、政府に簡単に鎮圧されてしまうような、通りを行進してデモを起こすという従来どおりの方法ではなく、工場の中に残り占拠するという新しいスト手段を用いた。
彼らは経済状況の改善を求めるとともに、労働組合の自由、党上層部の特権廃止、工場内における役所的な手続きの軽減、といった政治的な要求も出した。
「7月スト」はおよそ2週間続いた。政府は労働者側に譲歩することで最終的になんとか平和的に解決した。
しかし、ルブリンのストによって発生した勢いはすぐにグダンスクで1980年8月に発生した新たなストの波に影響を及ぼした。グダンスクの労働者たちは、ルブリンの労働者が1ヶ月前に用いた手段、つまり行進などを行わず職場に留まりストを起こすという手段を踏襲した。
政府はこのとき全国に拡がったストの勢いに飲まれて譲歩を余儀なくされ、政府から独立した自由な労組の設立を認め、のちの「連帯」運動へとつながっていくことになる。
つづく
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