|
|
前半 後半 全体 ■2009年3月10日 アウシュビッツ博物館視察 |
●アウシュビッツ博物館を歩き見る ここでは現在博物館となっているアウシュビッツ強制収容所(1,2)の主な施設、展示物のなかから、欧州全域で不当逮捕され、強制連行、移送されたうえ、選別、強制収容、強制労働、飢餓、疫病、拷問、虐殺、遺品、そして解放に関する展示写真を紹介したい。 出典:アウシュヴィッツ・ビルケナウ案内書、2008 ●全般的展示 4:絶滅行為に関する展示 5:犯罪行為の証拠に関する展示 6:囚人の生活に関する展示 7:囚人の居住・衛生状態に関する展示 11:死のブロック ●関係各国の展示 13:欧州ロマが絶滅されたことに関する展示 15:ポーランド展示 16:スロバキアのユダヤ人に関する展示 チェコからの囚人に関する展示 17:ユーゴスラビア、オーストリアに関する展示 18:ハンガリーのホロコースト犠牲者に関する展示 20:フランスからアウシュビッツに強制連行者に関する展示 同ベルギーに関する展示 21:1940−1945年のオランダのユダヤ人迫害と強制連行に関する展示 同イタリアに関する展示 27:ユダヤ人の受難の歴史に関する展示 ●重要施設 a:ガス室・焼却炉 b:死の壁 c:チクロンB/囚人持参物の倉庫 d:点呼広場・集団絞首台 e:収容所の厨房 f:所長の住居 g:収容所司令部 h:SS管理局 i:SSの病院 j:ゲシュタポ司令部 k:SS衛兵所・収容所事務室 l:SSガレージ m:管理棟 n:囚人受け入れ場所 10:断種実験室 19,20,21,28:収容所内の病院 本論考の主な出典、引用は国立オシフェンチム博物館、アウシュビッツ・ビルケナウ案内書によっている。 5号棟の入り口にて 撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 アウシュビッツ博物館の展示物を見る来館者 撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 ●アウシュビッツ・ビルケナウ収容所への強制連行 視察場所:4から7号棟、13から27号棟 下の地図は、アウシュビッツに連行されたユダヤ人やその他の囚人が強制連行される前にいた都市である。ザット数えると80都市もある。 これら欧州各地の都市、ゲットー、一時収容所、監獄などからアウシュビッツの3つの収容所に主に貨車(列車)で送り込まれたことになる。 アウシュビッツ収容所に強制収容された欧州の80カ所に及ぶ都市名 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 以下の写真の多くは、ホームページ上で来館者らによってすでに公開されているものだが、それらの多くはアウシュビッツ博物館に掲示されていた。 ●不当逮捕・強制連行 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 アウシュビッツ収容所の周辺地域では、ポーランド人の避難がおこなれた。下の写真はその一部。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 ガイドブックによれば、アウシュビッツ収容所へ殺害目的で送られたひとびとの大部分は、東ヨーロッパに移住させられるだけと信じていたという。 ●移送・選別 下はアウシュビッツ強制収容所の特別積み下ろし場に到着したひとたちである。 列車で収容所まで移送されてきたひとびと(アウシュビッツ2、ビルケナウ) 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 列車で収容所まで移送されてきたひとびと(上は女性たち) 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 ギリシアとハンガリーのユダヤ人たちは騙されナチス・ドイツから存在しない農場、土地、商店などを買わされたという。 ハンガリーから到着したユダヤ人(これはビルケナウ)。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 収容所に到着したひとたちは、自分の財産のなかで最も価値の高いものを持参していたという。 列車で収容所まで移送されてきた子供(アウシュビッツ2、ビルケナウ) 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 強制移送されたひとのなかには、アウシュビッツ収容所から2000km以上離れた場所から満員の貨物車で送られてきたものもいた。貨車では食事もトイレもなく、ぎっしりと押し込まれた。アウシュビッツに到着するまで一週間から10日間もかかっている。 貨車は1943年までは貨物用の引き込み線駅に降ろされた。下車すると直ぐに、ナチス・ドイツのSS将校とSSの医師による人間の選別が行われた。 労働が可能なものと、できそうもないもの2つに選別された。労働ができそうもないとSSに判断されたひとは、ガス室などに直行となり殺害されたという。 収容所における朝礼点呼(アウシュビッツ2、ビルケナウ) 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 ルドルフ・ヘス元所長ののちの証言によると、到着したひとびとの70から75%がガス室かその他で殺害されたという。 4号棟から6号棟には、SS職員により当時撮影された数100枚の写真のうち数10枚が展示されている。 なお、アウシュビッツの「死の工場」の見取り図には、赤色で集団虐殺場が示されている。それらは銃殺場、ガス室、焼却炉、死体を落としあるいは積み上げ焼くための場所を意味していたという。 列車で収容所まで移送されてきた子供(アウシュビッツ2、ビルケナウ) 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 収容所に送られてきた人々が持参したものは分別され、SSや国防軍、ドイツの一般市民が利用するために倉庫からドイツ本国に送られた。殺されたひとびとのものもSS隊は使っていた。 ユダヤ人などから略奪した荷物を積んだ列車が立て続けにドイツ本国に向かったにもかかわらず、倉庫は常時満杯だったという。 ●朝礼・点呼 かろうじて生き残ったひとのなかには、何名かの画家がいた。以下は、Mieczyslaw Koscielniak氏が描いたアウシュビッツ収容所における点呼の様子。 収容所における朝礼点呼(アウシュビッツ1) Auschwitz I. Roll Call in the main camp, by Mieczyslaw Koscielniak 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 ●強制収容・強制労働 アウシュビッツに移送されてきた囚人の一部は、選別なしで直接収容された。大部分の人々は飢餓、死刑執行、重労働、拷問、不衛生などの理由で死んでいった。 選別時に労働に耐えうると判断された収容されたユダヤ人などもいた。囚人達は管理局長から「おまえ達に出口はひとつしかない。焼却炉の煙突だ!」と言われたという。 SSが撮影したビルケナウ収容所における囚人の強制労働 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 新しく着いた囚人達は洋服などを取り上げられ、髪の毛を切られ、消毒を受けて囚人番号が付けられ登録された。囚人は3ポーズの写真を撮られた。 1943年からは、その代わりに左側の腕に入れ墨が入れられた。これが行われたのはアウシュビッツ1だけだった。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 収容所の居住状況はいつも悲惨なものであった。最初の囚人達はコンクリートの上に置いてあった藁の上に寝ていた。 その後マットレスが配給された。40人から50人用の部屋には、通常200人の囚人が入れられてた。その後につくられた3段ベッドも居住状況を改善したわけではなかった。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 残されている多段ベッド(木製) 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 最初は一段ごとに2人の囚人が寝ていた。掛け布団は汚れた穴だらけの毛布だけであった。そしてSSに協力した囚人だけが自分の部屋を持つことが許された。 アウシュビッツの収容所では囚人は二階建てのしっかりした建物で生活していたが、ビルケナウでは、沼地に建てられた基礎なしの粗末なバラックでの生活を強いられた。 残されている多段ベッド(これはレンガづくり) 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 アウシュビッツ地域一帯は湿度の高い機構、劣悪な居住環境、飢え、防寒の役割を果たさない、さらにろくに洗濯も出来ない囚人服、さらにネズミと虫もいた。 これらはいずれも伝染病の原因となるもので、多くの囚人に死をもたらした。 収容所内の病院がたえず満杯となった。治療を受けるために、そこに入った囚人たちは治療を受けられずに帰るしかなかった。 それを解決するとしてSSの医師は病気が回復期にある患者とそうでない患者の選別を病院内で定期的に行っていた。 その結果、衰弱した者、回復する見込みのない囚人たちがガス室に送られたり、病院で心臓へのフェノル注射を打たれたりして殺された。病院は「焼却炉の玄関」と囚人達に呼ばれていた。事実、病院は焼却炉の近くにあった。 実物が残されているトイレ 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 実物が残されているトイレ 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 収容所で最も悲惨を味わうことになったのは、妊婦と子供であった。 彼らの多くは、貨車で送られた後の選別ですぐにガス室行きとなった。その後、子供だけが収容されることもあった。 それはユダヤ人とジプシー、それにポーランド人とロシア人の子供たちである。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 ●飢餓・疫病・拷問・虐殺 収容所内は不衛生で伝染病が蔓延した。とくにチフス、カイセンが流行していた。これらも命を落とす原因のひとつとなった。 囚人の一日の摂取カロリーは1300〜1700カロリーに過ぎなかった。朝食は500CCのコーヒーと呼ばれた液体、昼食として1リットルのほとんど水のような腐った野菜で作られたスープしか与えられなかった。 夕食は300から350グラムの黒いパン、3グラムのマーガリンと薬草の飲み物などだった。 重労働と飢えにより体力は完全に衰弱し、多くの囚人達は栄養失調となり死んでいった。 解放後に発見された女性は体重が23から35キログラムにまでやせ衰えていた。 飢餓でやせ衰えた子ども達 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 下は有名な有名な飢餓の子供達の写真。膨大な数のこの種の写真が展示されている。 痛ましい子供の飢餓に見入る入館者 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 下は飢えで死に施設内に放置された女性の写真。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 下の写真はアウシュビッツ施設内で虐殺され放置されている囚人たち。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 脱走を試み死亡した囚人、絞首刑にされた囚人、拷問されている囚人、生き埋めにされた囚人などの写真の数々が展示されている。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 脱走をくわだて高電圧鉄条網で亡くなったひとを描いた絵。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 戦争末期の1944年の8月から9月にクラクフの南にあったプラショフ(Pluszow)強制収容所から男性、女性、子供約13000人がアウシュビッツ強制収容所に送致され(おそらく帰らぬ人となった)たという。 下の写真は13000人の一部の写真。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 死体を運ぶ囚人労働者。多くの囚人はSSの監理下でこの種の労働もさせられている。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 下は野焼きされる囚人らの遺体。これはアウシュビッツ2、ビルケナウにおける現場を撮影した写真。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 ●ポーランド人によるレジスタンス活動 フランス、ベルギー、ユーゴスラビア、ギリシアなど欧州各国でポーランド人によるレジスタンス活動が行われた。下はその写真。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 ●証拠隠滅そして解放 戦争末期、アウシュビッツにソ連軍が近づいてくるとともに、倉庫から価値に高いものがドイツ本国に運び込まれる速度が高くなった。 そしてソ連による施設解放の直前には犯罪の後を消す目的でSSは倉庫に火を放った。 35あった倉庫のうち6つだけが残り、そのなかには何万個のクツ、ブラシ、洋服、目がねなどが発見されている。 1945年、収容所で解放されたひとびと(アウシュビッツ) 収容所で解放された子供達(アウシュビッツ) 犠牲者の写真の数々 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 残された膨大なクツを見る池田さん 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 残された膨大なクツを見る池田さん 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 下は残された子供用のお人形の山 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 この後、私たちはアウシュビッツ強制収容所にある人体焼却炉に向かう。 つづく |