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前半 後半 全体 ■2009年3月12日 ポーランド東の3大絶滅収容所、トレブリンカを知る 私たちはソビボル絶滅収容所の跡地を視察した後、マイダネク(Majdanek)強制収容所に向かう。さらにかつてポーランド・リトアニア大連合の舞台となった古都ルブリン(Lublin)に向かった。 とはいえ一刻一刻、夕方が近づく。当初の予定では、マイダネクは翌日の3月13日に訪問する予定であったが、うまく行けばギリギリ日没前にマイダネク強制収容所を視察できる。 ソビボルからマイダネクへは、国道82号線で南下し、途中、地方道828号線を経由し、最終的に国道17号線でマイダネクそしてルブリンに入る予定だ。 ところで、3大絶望収容所のひとつ、トレブリンカだが、トレブリンカもベルゼック、ソビボル同様、ナチス・ドイツが敗戦前に徹底的な証拠の隠滅作戦にでて施設そのものを破壊した。 そのため現在、収容施設、ガス室、焼却炉などはベルゼック、ソビボル同様保存、展示されていない。またトレブリンカは下図にあるようにワルシャワの北東、約90kmの位置にあり、ソビボルからの距離は230kmもある。車ではどうみても最低でも4時間はかかる。 明日の3月13日は、ルブリンから首都、ワルシャワに戻る予定でその途中にトレブリンカに寄れないことはないが、距離的、時間的にかなり厳しいので、今回、トレブリンカに行くのは断念する。 東ポーランドにおける4大強制収容所の位置 出典:赤丸は青山、元の地図の出典は http://biega.com/epoland-tour2.html ここでは、3大絶望収容所のひとつであるトレブリンカについては、その概要を報告するにとどめたい。 ●トレブリンカ絶滅収容所の概要 トレブリンカ収容所はワルシャワ北東90kmに設けられた強制収容所で、絶滅収容所として悪名高い。トレブリンカに到着した囚人は分別されることなくほぼ全員がガス室送りとなった。 1942年に設立されてから1943年に解体されるまでの1年余りにワルシャワ・ラドム地方のユダヤ人を中心に、約90万人もの人々が犠牲になったといわれている。 教育学者のコルチャック氏、国際共通語エスペラント語の創始者ザメンホフの娘らも 、この場所で収容所の露と消えた。 Sign from Treblinka railway station on display at Yad Vashem Source:English Wikipedia ●東ポーランド3大絶滅収容所とトレブリンカ絶滅収容所 東ポーランドの3大強制収容所(絶滅収容所)には、すでに述べたようにベルゼック(Belzec)、ソビボル(Sobibor)とともにトレブリンカ(Treblinka)の3つがある。 トレブリンカ(Treblinka)絶滅収容所は、1941年、ワルシャワの北東80kmに設置した強制収容所である。正確にはトレブリンカは第1収容所(Treblinka I)と第2収容所がある。 第1収容所は、強制労働キャンプで1944年7月まで機能していた。第1収容所では、1944年7月にソ連軍が近づいたとき、看守は囚人300〜700人を射殺後、撤退した。 トレブリンカ第2収容所では、1942年7月から9月、ワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人強制居住地区)の26万5千人のユダヤ人を殺害したとされる。さらに、トレブリンカ第二(絶滅)収容所(Treblinka II)では1942年7月から1943年11月に87万から92万5千人が殺害されたという報告もある。 そのうちユダヤ人はラドムから33万7千人、ルブリンから3万5千人、ビアールストック(Bialystok)から10万7千人がトレブリンカに移送されている。 ポーランド外ではスロバキアから7千人、テレジエンシュタット(Theresienstadt)収容所から8千人、ギリシャから4千人,マケドニア(ブルガリア)から7千人のユダヤ人が移送されている。 2000年に発見されたラインハルト作戦に関するHofle Telegram(電信記録)によれば、1942年に移送されたユダヤ人はトレブリンカ(Treblinka) 7万1,355人、ベルゼク(Belzec) 43万4,500人、 ソビボル(Sobibor) 10万1,370人、 マイダネック(Majdanek) 2万4,733人とされていた。 しかし、ナチスの統計官リッカート・コルヘ(Richard Korherr)博士が国家長官ヒムラーに送った1943年4月の報告書では「ヨーロッパユダヤ人の最終解決」の人数としてトレブリンカ、ソビボル、ベルゼック、マイダネックで収集した記録に基づき1942年末までに127万4,166人が移送されたとしている。 したがって総計 127万4,166人のユダヤ人が移送されたというコヘル 報告にあるトレブリンカで処理された人数である7万1,355人は、71万3,555人の誤記であると考えられる。 トレブリンカ絶滅収容所のイメージ画 The Willenberg Drawing of Treblinka Source:English Wikipedia トレブリンカ絶滅収容所の全体計画図 出典:Treblinka: Extermination Camp or Transit Camp? By Jurgen Graf トレブリンカ強制収容所は1942年5月にリヒャルト・トマラ親衛隊大尉の指揮により建設工事が開始された。建設工事は同じくトマラが建設指揮をとったソビボル強制収容所に多くの部分を倣っている。 この収容所は長方形型であり、13.5haの面積であった。絶滅収容所であったため通常の収容所と比べると手狭であった。 付近に人家は少なく、ビルケナウ強制収容所のような鉄道の引込み線が設けられた。 トレブリンカ強制収容所は高さ3mの鉄条網で囲まれていた。機関銃とサーチライトの備わった監視塔も複数存在した。収容所内は第1収容区と第2収容区が存在し、第1収容区には入口・事務所・厨房・倉庫・作業場・菜園に100人から140人ほどのウクライナ人警備兵の宿所などがあった。 第2収容区は作業組ユダヤ人のバラック、脱衣バラック、ガス室、遺体焼却施設、共同墓地が存在し、絶滅計画が行われていた。親衛隊員は20名ほどであり、収容所の要職に就いてウクライナ人看守たちを指揮した。彼らは入口の近くの武器庫の側で暮らしていた。 ガス室はソビボルと同型で4m四方、高さ2.6mの部屋で天井に水道管らしきものが走っており、一見シャワー室に見えた。そこから隣室から流したディーゼルガスによってガス殺をおこなっていたとされる。 参照:Wikipediaなど |