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前半 後半 全体 ■2009年3月10日 氷雨降るビルケナウ収容所を行く |
●ビルケナウ収容所のバラックを詳しく見る 主な施設案内 it: 総合案内所、この近くにバスが到着する。 BUa:隔離所 BUb:テレジンのユダヤ人家族用収容所 BUc:ハンバリーのユダヤ人収容所 BUd:男性収容所 BUe:ジプシー収容所 BUf: 囚人用病院 BUg: 殺害された人々から奪った物の倉庫(通称カナダ) BV: 収容所増設地域(通称メキシコ H: 引き込み線(積み下ろし場) KU〜V:ガス室・人体焼却場の後 L: 野外焼却場(遺体の野積み場所) M: ソ連軍捕虜集団墓地 N: 人間の灰処分場 O: 司令部 P: 死のブロック R: サウナ(常設展示場) S: 懲罰労働斑 T: 囚人用トイレ・洗面室 W: ナチス政権下の犠牲者の国際慰霊碑 実はアウシュビッツU-ビルケナウ強制収容所の焼却施設に近い場所に野外の遺体の野積みと野焼き場所があった。 現在、それらの具体的状況は知るよしがない。 下の写真は当時、ビルケナウなどの強制収容所で行われた死体の野積みである。何とも痛ましい光景である。 Auschwitz II-Birkenau concentration camp. Members of the Sonderkommando burning corpses on pyres in pits in 1944. Photographer unknown, 1944 ビルケナウの焼却施設は「死の門」をはさみ、引き込み線の最も奥にある。下の写真は焼却施設側から写した「死の門」である。遙か先に「死の門」が小さく見える。 引き込み線が終わる部分に花が捧げられていた。 当時、欧州の80を超える都市から貨車に詰め込まれこの引き込み線でビルケナウに送り込まれ、犠牲となったひとびとへの鎮魂は今なお続いている。 引き込み線が終わる部分に花が捧げられていた 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 ビルケナウ収容所を離れる直後、激しいみぞれまじりの雨が再度、降り出した。 ビルケナウ強制収容所の死の門に延々と続く線路 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 下は降り出した雨の中を出口に向かうイスラエルから来た高校生の一団。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 私には、作曲家の加古隆氏がNHKの「映像の世紀」のために作曲した「パリは燃えているか」の曲が脳裏を横切る。 加古隆氏の「パリは燃えているか」の曲はこの地でみた風景とピッタリとマッチしている。映像の世紀ではナチス/ドイツのヒットラー、アウシュビッツ...の映像が流れる。今その真っただなか、しかも冷たい雨が降るビルケナウのなかに立っている。 ビルケナウに収容されたひとの実に100万を超す人々が犠牲となっている。当時、食事も水も満足になく、この地に強制的に収容され、殺戮される順を待つひとびとのこの上ない悲しみを実感した次第である。 みぞれ交じりの雨が降るビルケナウ強制収容所 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 ぜひ、みなさんも加古さんの「パリは燃えているか」の曲を聞きながら、この風景を見て欲しい! 加古さんの「パリは燃えているか」は、ベストセラーアルバムとなった「Image」第一作に収録されている。 この後、帰りのバスを待っていると、あれだけ激しく降っていたみぞれまじりの雨が止んで、青い空がアウシュビッツ-ビルケナウの空に現れた! 下は1940−1941年にドイツがアウシュビッツ-ビルケナウに強制収容所を設置した事実を記す案内板である。 アウシュビッツ−ビルケナウはじめ、ドイツが設置した膨大な数の強制収容所を世界のひとびとに公開、展示するポーランド政府にこころから敬意を表したい! 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 下の地図は、戦争が終了した1945年、アウシュビッツービルケナウ強制収容所から各国に避難するルートが示されている。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 1979年、アウシュビッツ・ビルケナウの強制収容所は、国連ユネスコの世界遺産に登録されている。以下はその登録表示。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.10 私たちはこの後、ビルケナウ強制収容所→アウシュビッツ博物館→クラクフ旧市街と、来たときの逆のルートで宿泊先まで路線バスで戻った。 つづく |