エントランスへはここをクリック   

群馬県内古墳群探訪

前二子古墳

(前橋市大室町)

青山貞一 Teiichi Aoyama   池田こみち Komichi Ikeda
13 Autum, 2019
独立系メディア
E-wave Tokyo
無断転載禁
1日目 はじめに  八幡塚古墳  二子山古墳 薬師塚古墳 大鶴巻古墳  浅間山古墳 観音塚古墳
 上野国一社八幡宮 八幡宮2 八幡宮3 達磨寺1 達磨寺2 達磨寺3 達磨寺4  達磨寺5
2日目 小栗の里 大室公園  前二子古墳  中二子古墳  後二子古墳  小二子古墳  民家園1
 民家園2 民家園3 民家園4 民家園5 民家園6 民家園7 民家園8 埴輪1 埴輪2
 はにわ館 宝塔山古墳  秋元氏歴代墓地 虻穴山古墳 総社歴史資料館1 資料館2 資料館3
 資料館4  資料館5  資料館6  資料館7  資料館8  資料館9  資料館10  資料館11
 愛宕山古墳 遠見山古墳 山王廃寺  まとめ


◆前二子古墳(まえふたごこふん)


ロゴ出典:古墳マップ




出典:前橋市 大室古墳群 


撮影:青山貞一 Nikon CoolpixS9900  2019-8-15


 下は前二子古墳の写真です。


Source:Wikimedia Commons

 以下は前二子古墳全容写真です。


撮影:青山貞一 Nikon CoolpixS9900  2019-8-15

概要

 主軸を北東70°に向けた前方後円墳で墳丘は全長94メートルの2段構築となっています。墳丘の一部は地山を削り出して造成され、また上段のみに葺き石が施されています。

 墳丘の周囲は盾型で二重の堀が巡らされ、堀を入れた長さは148メートルに達します。 前二子古墳のすぐ北側に中二子古墳が隣接しています。前二子古墳の主軸方向の延長線上400メートルには5世紀後半から6世紀初頭の豪族居館跡である梅木遺跡があり、前二子古墳の被葬者との関連をうかがわせます。

第一次調査

 大室古墳群は明治政府による陵墓探索の動きをうけ、1878年(明治11年)3月に前二子古墳と後二子古墳の石室が発見・開口されました。この頃群馬県では、日本書紀に上毛野君・下毛野君の始祖とある豊城入彦命の陵墓探索が県を挙げて行われていました。

 その後、1875(明治8)年に前橋市の総社二子山古墳が陵墓参考地に治定されましたが、翌年解除されました。これにより、もう一度陵墓捜索が行われる過程で大室古墳群が発掘されました。

 石室が開けられてから1ヶ月ののちの4月に当時の県令名で宮内卿宛てに前二子古墳を豊城入彦命の陵墓として上申されましたが、11月に官員によって行われた調査では決定的な根拠を欠くとされ、陵墓認定は失敗に終わりました。

 陵墓指定はされなかったものの、展示品の展覧会では一年間で日本中から5000人を超える見学者が訪れました。この調査により掘り出された出土品は近くの神社の宝物殿で大切に保管され、現在は前橋市教育委員会に収蔵されています。


撮影:青山貞一 Nikon CoolpixS9900  2019-8-15


撮影:青山貞一 Nikon CoolpixS9900  2019-8-15


撮影:青山貞一 Nikon CoolpixS9900  2019-8-15


撮影:青山貞一 Nikon CoolpixS9900  2019-8-15



撮影:青山貞一 Nikon CoolpixS9900  2019-8-15


撮影:青山貞一 Nikon CoolpixS9900  2019-8-15


撮影:青山貞一 Nikon CoolpixS9900  2019-8-15


アーネスト・サトウによる調査

 アーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow)はイギリス政府から派遣された外交官の一人であり、考古学に興味を抱いていました。彼は大室での発掘調査や出土品についての情報を群馬在住の知人から入手していました。サトウは1880年(明治13年)3月初旬に大室を訪れ、前二子古墳の出土品のスケッチや測定を行っています。

 このときの調査内容は4月13日の日本アジア協会で発表し、その内容は『日本アジア協会紀要』第8巻第3号に「上野地方の古墳群」として収録されています。この紀要に石室内部の遺物の出土状況を非常にわかりやすくスケッチしているほか、石室に塗られた赤色顔料やガラス玉のサンプルを持ち帰り、それぞれ酸化鉄とカリガラスという化学分析の結果も報告しています。これは日本で初めて行われた科学的分析として大変意義深いものです。

第二次調査

 前二子古墳の横穴式石室は天井石が欠損していたり、壁石が大きく傾いていたりと見学するには危険な状態となっていました。そこで、整備にあたり石室の解体と再度の組み立てという大規模な修復工事が行われることになっていました。この調査により石室の構築方法が判明しています。

出土品

 石室から出土した副葬品は、装身具(金製耳管2・ガラス製青色丸玉451・ガラス製緑色小玉17・ガラス製黄色小玉28・水晶製丸玉15・碧玉製管玉6・滑石製管玉1・滑石製臼玉2・銀製空玉3)、武器(捩り環頭大刀1・鉄鉾刃部2・鉄鉾石突2・直刀1・鉄鏃112)、馬具(剣菱形杏葉4・双葉剣菱形杏葉4・f字型鏡板付轡1セット・辻金具類・鞍金具片・輪鐙)、農耕具(ミニチュア農耕具・斧2・刀子1・鋤1・針20)、鉤状金具20、須恵器(小像付筒型器台1・高坏型器台2・提瓶2・直口壺1・高坏3)、土師器(台付壺1・高坏4・坏2・坩1)と非常に充実した内容となっています。古墳墳頂からは円筒埴輪と家型・大刀などの形象埴輪が見つかりました。

 墳丘一段目のテラスからは石見型埴輪と人物埴輪、外堤からは人物埴輪が出土しています。円筒埴輪は墳丘に1340本ほどが樹立されていたとみられています。

 これらの副葬品には朝鮮半島とのつながりを匂わせるものが多く含まれています。鉤状金具は石室や棺を布幕で覆う際に使用したと想定されていますが、百済の武寧王陵や慶尚南道の松鶴洞1号墳でも同様の金具が見つかっています。

 また小像付筒型器台は日本ではほとんど例はありませんが、朝鮮半島では新羅の都・慶州を中心に多数発見されています。石見型埴輪は儀杖や玉杖を模したものと考えられ、同じ形をした木製品が朝鮮半島の月桂洞1号墳から出土しています。


中二子古墳へつづく