群馬県内古墳群探訪 小栗の里 (高崎市倉淵街) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 15 Autum, 2019 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
1日目 はじめに 八幡塚古墳 二子山古墳 薬師塚古墳 大鶴巻古墳 浅間山古墳 観音塚古墳 上野国一社八幡宮 八幡宮2 八幡宮3 達磨寺1 達磨寺2 達磨寺3 達磨寺4 達磨寺5 2日目 小栗の里 大室公園 前二子古墳 中二子古墳 後二子古墳 小二子古墳 民家園1 民家園2 民家園3 民家園4 民家園5 民家園6 民家園7 民家園8 埴輪1 埴輪2 はにわ館 宝塔山古墳 秋元氏歴代墓地 虻穴山古墳 総社歴史資料館1 資料館2 資料館3 資料館4 資料館5 資料館6 資料館7 資料館8 資料館9 資料館10 資料館11 愛宕山古墳 遠見山古墳 山王廃寺 まとめ ◆小栗の里 私たちは、北軽井沢から前橋方面に行く場合、すべて一般道路を使いますが、途中にある倉淵は、もともと倉渕村でしたが、2006年1月23日に高崎市に編入され連在は高崎市倉渕村です。 撮影:青山貞一 Nikon Coollpix S9900 2019-8-15 以下は道の駅の内部です。一見、何の変哲もないのですが、..... 撮影:青山貞一 Nikon Coollpix S9900 2019-8-15 撮影:青山貞一 Nikon Coollpix S9900 2019-8-15 私達は「くらぶち 小栗の里」は、ブランチや昼食でよくゆきます。 理由は簡単、下のメニューを見れば分かります. この「くらぶち 小栗の里」の値段は決して安くはないのですが、旨味が効いて美味しいからです。 とりわけ美味しいのは、群馬名産のオッキリコミです。オッキリコミは群馬県内での呼び名で、本場、山梨県ではホウトウといいます。 撮影:青山貞一 Nikon Coollpix S9900 2019-8-15 以下は、地元上毛新聞のオッキリコミについての記事です。圏内70店のなかでも、ここのオッキリコミは美味しく人気があるのです。オッキリコミは冬食べるのが一番ですが、ここでは夏メニューもあります。冷たいオッキリコミです。 撮影:青山貞一 Nikon Coollpix S9900 2019-8-15 撮影:青山貞一 Nikon Coollpix S9900 2019-8-15 以下の写真は、オッキリコミをつくる「くらぶち 小栗の里」の女性軍です。 ところで、「くらぶち 小栗の里」の小栗の里とは何なのでしょう? 小栗の里の小栗は、以下の写真にある小栗上野介が、倉淵の出身であり、その小栗上野介がこの地の人々にとって、尊敬の対象であるからです。 撮影:青山貞一 Nikon Coollpix S9900 2019-8-15 小栗上野介、本名、小栗 忠順(おぐり ただまさ)は、江戸時代末期の幕臣、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行です。通称は又一。「又一」は、代々小栗家当主が名乗る名前です。 戦場で度々功績を立てた先祖が、家康から「また一番槍は小栗か」と言われ拝領された名前と言われています。安政6年(1859年)、従五位下豊後守に叙任。文久3年(1863年)、上野介と改名しています。三河小栗氏第12代当主で、父方の祖父は同じく勘定奉行を務めた中川忠英です。 小栗上野介は安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建やフランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行いました。 徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)に罷免され領地である上野国群馬郡権田村(群馬県高崎市倉渕町権田)に隠遁されました。 同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出しましたが逮捕され、翌日、斬首されました。逮捕の理由は、大砲2門・小銃20挺の所持と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説(徳川埋蔵金説)などが挙げられますが、これらの説を裏付ける根拠は現在まで出てきていません。 のちに、明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直され、大隈重信や東郷平八郎から幕府側から近代化政策を行った人として高く評価されています。司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と記しています。 大室公園へつづく |