群馬県内古墳群探訪 秋元氏歴代墓地 (前橋市総社町) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 15 Autum, 2019 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
1日目 はじめに 八幡塚古墳 二子山古墳 薬師塚古墳 大鶴巻古墳 浅間山古墳 観音塚古墳 上野国一社八幡宮 八幡宮2 八幡宮3 達磨寺1 達磨寺2 達磨寺3 達磨寺4 達磨寺5 2日目 小栗の里 大室公園 前二子古墳 中二子古墳 後二子古墳 小二子古墳 民家園1 民家園2 民家園3 民家園4 民家園5 民家園6 民家園7 民家園8 埴輪1 埴輪2 はにわ館 宝塔山古墳 秋元氏歴代墓地 虻穴山古墳 総社歴史資料館1 資料館2 資料館3 資料館4 資料館5 資料館6 資料館7 資料館8 資料館9 資料館10 資料館11 愛宕山古墳 遠見山古墳 山王廃寺 まとめ ◆秋元氏歴代墓地 この歴代墓地は前橋市総社町にある宝塔山古墳の上にあります。 宝塔山古墳の大きさは古墳は方墳で南北辺54m、東西辺49m、高さ12mです。 この宝塔山古は群馬県では方墳としては最大級であり、造られた時期は7世紀末と推定されています。 隣にある宝塔山古墳は発掘調査が進んでおり南側に大きな石室があります。 面白いことにこの古墳の頂上にはこの地を治めた秋元氏歴代の領主のお墓がありました。この地を実際に治めたのは秋元氏総社藩初代藩主の秋元長朝と二代泰朝の約30年だけです。 秋元氏は他の地に移っても、自分たちの後の領主の悪政に苦しむ領民を支援したとされ、この地の民は旧領主の秋元氏への感謝の念を忘れなかったそうです。 高さ12mの頂上からは周辺を見渡せることができ良い景色でした。すぐ隣接して立派な光巖寺やすぐ側に蛇穴山古墳・御霊神社などがあります。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2019-8-15 以下は秋元氏歴代の墓地です。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2019-8-15 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2019-8-15 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2019-8-15 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2019-8-15 以下は秋元氏の菩提寺の光巌寺(天台宗)とその教え、寺の由緒などをまとめたものです。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2019-8-15 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2019-8-15 ◆秋元氏 秋元氏(あきもとし)は、日本の氏族。本姓は藤原氏で宇都宮氏の一族と伝えています。 江戸時代に譜代大名となった。 出自 宇都宮頼綱の子泰業が13世紀前半に上総国周淮郡秋元荘を領して本貫としたのに始まります。そののち師朝のときに秋元の名字を名乗ったといいます。戦国時代に入り、景朝(元景)が深谷上杉氏に仕えています。これ以前の動向ははっきりしていません。 概要 戦国時代に、長朝は相模国の後北条氏、次いで関東へ転封された三河国の徳川家康に仕え、その新参家臣層に加わります。関ヶ原の戦いで上杉景勝の投降を促した功により、慶長6年(1601年)上野国総社藩1万石に加増されました。さらに泰朝は将軍職を譲り駿府に移った家康に仕える駿府在番衆のうち、本多正純を筆頭とする近習出頭人に連なります。 元和2年(1616年)の家康の死後に駿府在番衆が小姓組に吸収され、泰朝は元和8年(1622年)に父・長朝が死去すると旧領を合わせ、甲斐国東部の郡内領を支配する徳川家臣・鳥居氏の改易に際して郡内領の谷村藩・1万8千石へ加増されました。 次代の戸田家から養子として来た喬知は初代川越藩主となり幕政において老中に就任します。谷村藩政においても郡内織の奨励や谷村大堰・新倉掘抜の開削を行ったとされます。 宝永元年(1704年)には甲府藩主家・柳沢氏の旧領である武蔵国川越藩5万石に栄転し、凉朝の代に出羽国山形藩6万石となります。凉朝は老中・田沼意次と対立したといい、以後は不遇を託りました。 弘化2年(1845年)に上野国館林藩6万石へ転封されました。江戸城では雁間詰。明治維新後に子爵となりました。 菩提寺は群馬県前橋市の光巌寺です。墓所は光巌寺近隣の宝塔山古墳に存在します。 また、秋元氏には陸奥国鹿角郡に分流が存在します。泰業の子孫とする秋元氏が鹿角郡内の国人として鎌倉時代に活動しました。しかしその後の動向は不明で、大名家の秋元氏との関係や分派時期も不明です。 秋元家臣は最も古い上総領時代の家人を中核とし、武蔵深谷時代、上野総社藩時代にも譜代家臣が拡充され、谷村藩時代には谷村譜代や旧鳥居系家臣が取り立てられました。 虻穴山古墳へつづく |