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群馬県内古墳群探訪

少林山達磨寺1


(高崎市鼻高町)

青山貞一 Teiichi Aoyama   池田こみち Komichi Ikeda
13 Autum, 2019
独立系メディア
E-wave Tokyo
無断転載禁
1日目 はじめに  八幡塚古墳  二子山古墳 薬師塚古墳 大鶴巻古墳  浅間山古墳 観音塚古墳
 上野国一社八幡宮 八幡宮2 八幡宮3 達磨寺1 達磨寺2 達磨寺3 達磨寺4  達磨寺5
2日目 小栗の里 大室公園  前二子古墳  中二子古墳  後二子古墳  小二子古墳  民家園1
 民家園2 民家園3 民家園4 民家園5 民家園6 民家園7 民家園8 埴輪1 埴輪2 
 はにわ館 宝塔山古墳  秋元氏歴代墓地 虻穴山古墳 総社歴史資料館1 資料館2 資料館3
 資料館4  資料館5  資料館6  資料館7  資料館8  資料館9  資料館10  資料館11
 愛宕山古墳 遠見山古墳 山王廃寺  まとめ


 上野国一社八幡宮視察の後、私達は高崎の「だるま」で有名な少林山達磨寺に向かいました。距離は1.5km、車で4-5分の距離です。青山、池田ともに達磨寺は初めてです。


出典:グーグルマップ


◆少林山達磨寺(黄檗宗 


出典:Wikimedia



少林山達磨寺
Source:Wikimedia Commons


撮影:池田こみち iPhone  2019-8-13


概要


 達磨寺(だるまじ)は、群馬県高崎市にある黄檗宗の寺院です。

 山号は少林山。「高崎のだるま市」で有名な寺です。また建築家ブルーノ・タウトが2年ほど過ごし、助監督時代の黒澤明が脚本化した「達磨寺のドイツ人」の舞台でも有名です。

歴史

 明治14年6月14日の火災によって寺院と共に古文書の大半が焼失してしまい、創建などの詳細については不詳となってしまいました。

 (田島武夫 1973)によれば、(戦時に供出されてしまった)煩鐘の鐘銘に「正徳2年壬竜猛夏仏生日洞山卅六世少林二世天湫出撰」と記載があったと指摘し、正徳2年には成立していたと考えてよいとしています。

 『上野国史』では享保7年に前橋城・酒井雅楽頭忠知の懇請をいれて開山水府公護持の霊符を謹請し鎮護国家・武運長久の祈願所としたとあります。 また一説には古くからこの地に観音堂があり、延宝年間(1673年~1681年)この地を訪れた一了が達磨禅師の像を彫って安置したと言う。といった具合に諸説様々であります。

 現在は高崎名物とされる「縁起だるま」で知られている少林山達磨寺は、前橋藩を守護する寺院です。

 達磨寺の歴史(長文)

 ※黄檗宗とは
  承応3(1654)年,長崎の崇福寺住持,逸然性融らのたびたびの懇請によって独湛
  性瑩らとともに来日,将軍徳川家綱に謁見し,山城国宇治に黄檗山萬福寺の名を
  移して堂宇を建立した。その後,木庵性瑫が黄檗宗を広め,江戸にも瑞聖寺を建て
  て関東地方に禅風を伝えた。一時衰えたが,嘉永4(1851)年,良忠如隆が出て復興
  に努めた。1874年明治政府教部省の命令により臨済宗に合併したが,1876年再び
  独立して現在にいたる。宗風はほとんど臨済禅に一致するが,明代の念仏禅を伝え
  ているのが特徴。法式は明風を用いている。約 450の寺院をもつ。
  出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典

  
  撮影:青山貞一 Nikon Coollpix S9900  2019-8-13

文化財

 洗心亭(県指定史跡)
 達磨大師立像(市指定文化財) 


縁起(出典:達磨寺)

 昔、碓氷川のほとりに観音様を祀るお堂がありました。

 ある年の大洪水のあと、村人たちが川の中から香気のある古木を引き上げて霊木として観音堂に納めておきますと、延宝八年(1680)一了居士という行者が霊夢によって訪れ、信心を凝らして一刀三礼、達磨大師の座像を彫り上げ観音堂にお祀りしました。

 この噂は「達磨出現の霊地・少林山」として近隣に広まりました。その頃の領主・酒井雅楽頭忠挙公は厩橋城(前橋城)の裏鬼門を護る寺として、水戸光圀公の帰依された中国僧・東皐心越禅師を開山と仰ぎ、弟子の天湫和尚を水戸から請じて、元禄十年(1697)少林山達磨寺(曹洞宗寿昌派)を開創しました。

 享保十一年(1726)水戸徳川家から三葉葵の紋と丸に水の徽章を賜い、永世の祈願所とされました。


達磨大師(出典:達磨寺)

 達磨大師はインドの香至こうし国の王子として生まれたお方です。

 のちに出家し、お釈迦しゃか様から28代目の教えを継がれて、中国に渡られました。

 梁の武帝ぶていとの問答や、嵩山少林寺での面壁九年の話は特に有名です。その教えは慧可えか禅師に継がれのち日本に伝わり現在では世界中に広まっています。

 禅宗では初祖達磨大師と仰ぎますが、七転八起、面壁九年の不撓不屈ふとうふくつの精神は宗派を越え、誰からも親しまれ、慕われ、信仰されています。


観音堂の歴史(出典:達磨寺)


Source: Wikiwand

 観音堂は少林山達磨寺では最古の建造物です。開創のころ、ここは黄檗鉄眼版の一切蔵経を納めた「無尽法蔵」という名称の経蔵がありました。

 今から二百年ほど前、寛政四年(1792)に経蔵は大改修が行われ、開山・心越禅師が遥か中国より奉持された尊星板梓と北辰鎮宅霊符尊をおまつりする、霊符堂として面目を一新したのです。

 現在のお堂の姿となったのはその時からと考えられます。現存しているその大改修の際の棟札には経蔵創建当時の古材が使用されたと記録されているので、現在の観音堂は三百年前からの建物ともいうこともできます。


出典:達磨寺公式Web

 その棟札によりますと、当山第八代の南嶺和尚は黄檗僧照山和尚より霊符尊神像(現在本堂に祀られている本尊)の寄贈を受けて、霊符堂への大改修を発心されたのだそうです。

 ところがその頃、天明の飢饉や天災などが頻繁におこって、建立は長い間延期されることになってしまいました。

 その後、ようやく着工となったのは、後の少林山達磨寺九世となる 東嶽和尚(福だるまの創始者)の助力を得られるようになってからです。そしてついに寛政四年十月十五日棟上げの日をむかえられたのです。また建立の際しては多くの檀信徒の方々が霊符堂大改修の為に尽力されたそうです。

 なにしろ、たび重なる天災飢饉によって民衆は苦しい生活を強いられていましたので、わずか一銭半銭あるいは紙一枚という喜捨もあったとされ、また人々は喜んで石や土を運び、力を尽くしたといわれます。そのように江戸末期の檀信徒一人ひとりの信心が結集されて寛政四年の霊符堂大改修が成ったのです。


達磨寺2へつづく