群馬県内古墳群探訪 山王廃寺 (前橋市総社町) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 15 Autum, 2019 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
1日目 はじめに 八幡塚古墳 二子山古墳 薬師塚古墳 大鶴巻古墳 浅間山古墳 観音塚古墳 上野国一社八幡宮 八幡宮2 八幡宮3 達磨寺1 達磨寺2 達磨寺3 達磨寺4 達磨寺5 2日目 小栗の里 大室公園 前二子古墳 中二子古墳 後二子古墳 小二子古墳 民家園1 民家園2 民家園3 民家園4 民家園5 民家園6 民家園7 民家園8 埴輪1 埴輪2 はにわ館 宝塔山古墳 秋元氏歴代墓地 虻穴山古墳 総社歴史資料館1 資料館2 資料館3 資料館4 資料館5 資料館6 資料館7 資料館8 資料館9 資料館10 資料館11 愛宕山古墳 遠見山古墳 山王廃寺 まとめ 15日最後に山王廃寺に向います。 山王廃寺は以下のグーグルマップで分かるように上越線を挟み前橋市総社歴史資料館のすぐ近くです。車で5分以内です。 出典:グーグルマップ 住所:前橋市総社町総社2408 国指定 山王廃寺跡(前橋市) ◆山王廃寺 山王廃寺については、前橋市総社歴史資料館 に多くの出土品などがあります。 山王廃寺跡(さんのうはいじあと)は、群馬県前橋市総社町にある古代寺院の遺跡です。 国の史跡に指定されています。全国でも珍しい白鳳時代の「豪壮・華麗な」寺院の遺跡と推定されており、発見された石製鴟尾は全国で発見例が3件しかないもののうちの2件がここで見つかっています。 概要 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2019-8-15 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2019-8-15 山王廃寺跡は、群馬県中央部の榛名山南東麓を流れる八幡川と牛池川に挟まれた微高地上に位置します。西側約0.6kmに関越自動車道が、南側に国道17号が、東側にJR東日本上越線と八幡川を挟んで吉岡バイパス(産業道路)が走っています。 同廃寺跡の調査は大正時代に塔心礎が偶然発見されたことに始まり、その後の調査で、上毛地域では最古の、関東地方でも最初期の古代寺院跡であることが明らかとなりました。 1974年(昭和49年)から1981年(昭和56年)まで発掘調査が行われ、2006年(平成18年)から2010年(平成22年)には寺域を確認するための山王廃寺範囲内容確認調査が行われました。発掘調査で「放光寺」・「方光」と書かれた瓦が見つかったことで、山王廃寺は古文献などに記された放光寺であることが判明しました。 1928年(昭和3年)2月7日に「山王塔阯」の名称で国の史跡に指定され、2008年(平成20年)3月28日には指定範囲を追加のうえ、指定名称が「山王廃寺跡」に変更されました。他に、同廃寺跡から出土した塔心柱根巻石、緑釉陶器、塑像片などが国の重要文化財や群馬県指定重要文化財に指定されています。 歴史 古代 山王廃寺跡の周辺には総社古墳群や上野国の国府・国分寺・国分尼寺があり、7世紀の総社町地域は上野国の中心地でした。元来の寺名は「放光寺」であり、塔の心礎や心柱根巻石、鴟尾など精緻な石造品が見つかっているため、同寺はヤマト王権と密接な関係にあった古代豪族・上毛野氏の氏寺と考えられています。 飛鳥時代の681年(天武天皇10年)に建立された山ノ上碑の銘文には、放光寺の僧・長利が同碑を建立したことが記されており、7世紀後半には放光寺が存続していたことがわかりますが、平安時代の1030年(長元3年)に成立した『上野国交替実録帳』には、定額寺である放光寺が寺院の体をなしてないため、その列から外してほしいとの申請があったことが書かれています。発掘調査の結果からも、寺院の存続時期は7世紀後半から11世紀頃までであったと思われます。 近代以降 1921年(大正10年)に、日枝神社の境内から石製の塔心礎が発見されました。その後、石製鴟尾、塔心柱根巻石、塑像、緑釉陶器や大量の瓦などが続々と出土しました。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2019-8-15 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2019-8-15 1928年(昭和3年)2月7日に塔跡と思われる範囲が「山王塔阯」の名称で国の史跡に指定され、1953年(昭和28年)11月14日に塔心柱根巻石が「上野国山王廃寺塔心柱根巻石」として国の重要文化財に指定されました。1966年(昭和41年)6月11日には緑釉水注、緑釉埦、緑釉皿、銅鋺が一括して国の重要文化財に指定されています。 1974年(昭和49年)から1981年(昭和56年)まで発掘調査が行われましたが、1974年(昭和49年)次調査では北門と思われる建物跡(のちに講堂と推定)が検出され、1979年(昭和54年)次調査では塔の西側に金堂と思われる建物跡が検出されました。 また、同年次の調査で「放光寺」とヘラ書きされた瓦が出土したことで、山王廃寺は山ノ上碑銘文や『上野交替実録帳』中に見える放光寺であると判明しました。 1997年(平成9年)から1999年(平成11年)には下水道工事や道路改良事業に合わせて調査が行われ、寺域の西方から大量の瓦や塑像が埋まった土坑が検出されました。同土坑からは塑像片2000点以上を含む3000点以上の破片が出土しましたが、塑像には焼けた跡があることから、塔が火災に遭ったため、瓦や1階にあった塔本塑像の残骸がまとめられて穴へ廃棄されたものと思われます。 2006年(平成18年)から2010年(平成22年)には寺域を確認するための山王廃寺範囲内容確認調査が行われました。 2008年(平成20年)3月28日付けで国の史跡としての指定範囲が拡大され、指定名称が「山王廃寺跡」に変更されました。 2017年(平成29年)8月25日には1959年(昭和34年)に個人が採集した「山王廃寺出土塑像頭部」と、1997年(平成9年)および1999年(平成11年)の発掘調査で発見された「山王廃寺出土塑像群」が群馬県指定重要文化財に指定されました。 沿革 1921年(大正10年) - 塔礎石が発見されます。 1928年(昭和3年) - 「山王塔阯」として国の史跡に指定されます。 1953年(昭和28年) - 「上野国山王廃寺塔心柱根巻石」が国の重要文化財に指定されます。 1966年(昭和41年) - 「緑釉水注、緑釉埦、緑釉皿、銅鋺」が国の重要文化財に指定されます。 2008年(平成20年) - 国の史跡の指定範囲を拡大のうえ、指定名称が「山王廃寺跡」に変更される。 2017年(平成29年) - 「山王廃寺出土塑像頭部」と「山王廃寺出土塑像群」が群馬県指定重要文化財に指定されます。 伽藍 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2019-8-15 寺域は東西79.7m・南北81mの回廊に囲まれています。主要伽藍としては西に金堂、東に塔が配置され、これらの北側に講堂が配置される法起寺式伽藍配置であります。金堂は約22m四方、講堂は東西37.8m・南北24.5mで、塔の基礎は13.5m四方です。 文化財 国の史跡 山王廃寺跡 1928年(昭和3年)2月7日指定、2008年(平成20年)3月28日に追加指定と名称変更されています。 最初に発見された礎石は大きく、径は2.5メートルから2.7メートル、厚さは1.5メートルあまりのもので、表面を滑らかに削られています。 石の中心部には、柱を立てるための直径約65センチメートルほどの穴が穿たれており、さらにその内部に深さ30センチメートルの舎利孔が加工されています。この穴の周囲には直径1メートルの溝が円状に刻まれており、さらに四方へ放射状に溝があります。 重要文化財(国指定) 上野国山王廃寺塔心柱根巻石(根巻石) 群馬県所有、前橋市総社町総社所在。 山王廃寺遺跡の主要な文化財の一つとされており、最初に発見された柱礎石から北東の位置で見つかったとされています。 蓮の花びらに見立てた7つの安山岩を組み合わせて構成されており、全体として大きな蓮の花となっています。蓮の花の中央部は直径約96.5センチメートルの円状の穴になっており、その円周にあたる部分が縁状に少し高くなっています。 発見時はこれが何であるかは不明でしたが、中国の東京城の遺跡から同様のものが発見され、塔の芯柱の根元の飾り石であることが判りました。 これにより、寺は柱の直径が3尺あるような規模だったことがわかり、当時の石材の加工技術の高さを示すものともなりました。こうしたことから1953年(昭和28年)11月14日に国の重要文化財に指定されました。 緑釉水注1口、緑釉埦3口、緑釉皿4枚、銅鋺1口 群馬県所有、群馬県立歴史博物館保管。 1961年6月に発見、1966年(昭和41年)6月11日に国の重要文化財に指定されました。 平安時代初期の作品とされています。日本では奈良時代から唐の陶器を真似て緑釉陶器(奈良三彩)を作るようになっていましたが、この遺物はそれが平安時代初期に国風化されたことを示す代表作とみなされています。密教の法具として儀式で使われたと考えられています。 群馬県指定重要文化財 山王廃寺出土塑像頭部(高崎市所有、かみつけの里博物館保管) 山王廃寺出土塑像群4,084点(前橋市所有) 塔本塑像(塔の初層に置かれていた塑造群)が火災に遭ったため、まとめて埋められたものと思われます。法隆寺五重塔の塔本塑像に匹敵すると評価されています。2017年(平成29年)8月25日指定されています。 重要美術品 石製鴟尾 1936年(昭和11年)に国の重要美術品に認定を受けました。 鴟尾は屋根の棟飾りで、空想上の動物である「鴟尾」をかたどったものです。鴟尾は炎に対して水を噴き雨を降らせる能力を有するとされていたことから、防火のまじないとして建造物の屋根に設置されることが多いようです。日本ではほとんどの場合は瓦製で、石製のものとしては発見例が国内に3例しかなく、そのうちの2つがこの山王廃寺のものです。 山王廃寺からは2点が発見されているが、石材や加工に差異があることから、元来は別の建物に属していたとも推定されている。一部は欠損しており、完全な形では高さ約10.5メートルあったと推定されています。 現地情報 左:蛇穴山古墳、右:前橋市総社歴史資料館 所在地:群馬県前橋市総社町総社 アクセス: JR東日本両毛線前橋駅から群馬バス「蚕業試験場前」下車、徒歩約10分です。 関連施設 前橋市総社歴史資料館(群馬県前橋市総社町総社1584番地1) 周辺 国分僧寺跡:群馬県前橋市元総社町、高崎市東国分町・引間町 国分尼寺跡:群馬県前橋市元総社町、高崎市東国分町(位置) まとめへつづく |