真夏のスペイン スペイン・アンダルシア短訪 歴史的背景 鷹取敦 掲載月日:2016年9月15日
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昨年(2015年)8月、スペイン北部のカタルーニャ地方バルセロナ、中部のカスティーリャ地方のマドリード、セゴビアを訪れました。今年(2016年)8月には、南部のアンダルシア地方を訪れました。 ◆鷹取敦:スペイン旅行記・バルセロナ(2015年8月) http://eritokyo.jp/independent/takatori-spain2015-01.htm 日程的な制約からスペイン南部にあるアンダルシア地方までは足を伸ばせませんでしたが、是非、アンダルシア地方に一度訪れてみたいと考えていました。その理由はスペイン建国の歴史、そしてイスラムの歴史への関心からです。 スペイン、とくにアンダルシア地方の歴史を理解するためには、イスラムの歴史への言及が欠かせません。そこで、まずアンダルシア地方に関わるイスラムの歴史を簡単に振り返ってみたいと思います。 ■イスラムの歴史・イスラムによるイベリア半島の征服預言者ムハンマドは、西暦570年頃にアラビア半島の商業都市メッカでクライシュ族のハーシム家に生まれました。ムハンマドはその誕生以前に父を亡くし、幼い頃に母も亡くしたため、祖父と叔父のアブー・ターリブの庇護の下、育ちました。西暦610年40歳の頃、神の啓示を受け、イスラム教を開き、イスラム共同体(ウンマ)を率います。後継者を指名せず、後継者の選び方も決めないまま 632年に亡くなります。指導者を失ったイスラム共同体は話し合いにより共同体の指導者(カリフ)を選びました。ムハンマドが最後の預言者とされているため、カリフは預言者ではなくムハンマドの代理人です。4代目カリフまでは共同体の合意の下に選ばれたため「正統カリフ」と呼ばれています。 4代目正統カリフであるアリーは、ムハンマドを育てた叔父アブー・ターリブの息子、つまりムハンマドの従兄弟で、ムハンマドより30歳ほど年下です。アリーはムハンマドの娘ファーティマを妻としたため、ムハンマドの義理の息子でもあります。なお、アリーとアリーの息子(ムハンマドの孫)とその子孫を含めた12人の子孫を、歴代イマーム(指導者)として重視したのが、シーア派の主流である十二イマーム派です。 4代目正統カリフ、アリーは、対抗するムアーウィヤとの闘いに敗れ、ムアーウィヤと妥協しようとしたアリーは、支持派の一部に暗殺されます。ムアーウィアはカリフを名乗り、661年、イスラムの初の王朝であるウマイヤ朝(661年〜750年)を建てます。急速に拡大したスンナ派(スンニ派)が、少数派であるシーア派を圧迫してきた歴史があります。 正統カリフ時代に急速に版図(はんと)を拡げたイスラム共同体ですが、ウマイヤ朝時代にはさらに拡大し、西ゴート王国を滅ぼしイベリア半島(現在のスペイン、ポルトガル)にまで達しています。この時にイベリア半島はイスラムの支配下におかれることとなります。 西ゴート王国の内紛からビザンツ帝国領セウタの総督フリアンは対岸のウマイヤ朝北アフリカ総督ムーサー・イブン・ヌサイルに援軍を要請しました。711年、ムーサ−の司令官であるターリク・イブン・ズィヤード(ベルベル人で解放奴隷出身)が少数の勢力で現在のジブラルタルに上陸し西ゴート王国の大軍と闘いこれを打ち破り、コルドバ、マラガ、グラナダへ進軍しました。当時、西ゴート王国の圧政に苦しんでいた庶民は解放軍としてイスラム軍を受け入れたそうです。 北アフリカの対岸であるイベリア半島までイスラムのウマイヤ朝の領土が拡がったのは地図でみるとやや不思議に見えますが、そのきっかけは、キリスト教側の内紛からイスラム側に援軍を要請したことにあったのです。 出典:Wikipedia ウマイヤ朝は、750年に、アッバース朝に滅ぼされます。アッバース朝は預言者ムハンマドの叔父、アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの曾孫をカリフとしています。アッバース家もムハンマドと同じクライシュ族・ハーシム家の家系です。ちなみにヨルダン国王アブドゥッラーの王家が現存する唯一のハーシム家の王家です。 アッバース朝に滅ぼされたウマイヤ朝のウマイヤ家ただ一人の生き残りアブド・アッラフマーン1世は、母親がベルベル人であったため、アフリカ大陸に入りベルベル人に保護され、ジブラルタル海峡を越えて、イベリア半島・コルドバにウマイヤ朝を再興しました。後ウマイヤ朝(こううまいやちょう)と呼ばれています。後ウマイヤ朝は継承争いの内紛とレコンキスタの圧迫下で滅亡し、分裂します。 出典:Wikipedia 一方、アッバース朝はその後、衰退しますが、イスラム共同体の指導者であるカリフの地位は保護されます。アッバース朝のカリフ位は 、1518年にオスマン帝国のスルタンであるセルム1世に廃位され、オスマン帝国のスルタン=カリフとなりました。カリフ位がアラブ民族からトルコ(テュルク) 民族に移行したことになります。 出典:Wikipedia その後、世俗主義国家としてトルコ共和国を建国したムスタファ・ケマル(アタテュルク)により1924年に カリフは追放され、世界からカリフがいなくなりました。ISISが「カリフ国家」を自称しているのはこの歴史と関連があります。 ■レコンキスタ・キリスト教国によるイベリア半島の「再征服」イベリア半島がイスラムの帝国の支配下となった後、1492年のグラナダ陥落によるナスル朝(イベリア半島に存在したイスラム王朝)滅亡後、キリスト教国が、イベリア半島の「再征服」「国土回復」を目指した活動を総称して「レコンキスタ」と呼びます。出典:Wikipedia キリスト教が、カタルーニャ地方を「再征服」するのは914〜1130年、グラナダは1492年です。したがって、イスラム王朝による征服はカタルーニャ地方で約200〜400年間、グラナダは約700年間イスラムの支配下にあったことになるでしょうか。 イスラム支配下では、原則として、キリスト教徒、ユダヤ教徒は「ジズヤ」と呼ばれる人頭税を支払う限り、啓典(聖書)を共有する「啓典の民」として、それぞれの信仰が許され、保護されていました。たとえば、東ローマ帝国滅亡後も、イスラムの支配下、コンスタンティノープル(イスタンブール)には、東方正教(キリスト教)の総主教座が置かれていました。一般にイスラムの支配下ではキリスト教徒やユダヤ教徒はその信仰を許され、共存していたのです。 一方、キリスト教国によるイベリア半島の「再征服」の後、イスラム教徒は排除され、レコンキスタ終了後、表面的にキリスト教に改宗させられたユダヤ人を排除するため、過酷な異端審問を行いました (参考)。 西ゴート王国の圧制下、いわば解放軍として迎えられたというイスラムの支配下で数百年にわたりイベリア半島でまがりなりにもイスラム教徒、ユダヤ教徒は共存を許されていました。キリスト教国による「再征服」「国土回復」により、イスラム教徒、ユダヤ教徒が排除された歴史を考えると、キリスト教国の立場から「レコンキスタ」が「国土回復運動」と意訳されることや、現代においてイスラム教に対してもたれがちな偏見についても、歴史を振り返って考えなおさざるを得ないと感じます。 ■アンダルシア地方アンダルシア地方は、紀元前2世紀にローマ帝国に支配され、属州ヒスパニア・バエティアが置かれました。5世紀からの一時期、支配したヴァンダル族が「アンダルシア」の語源となっています (参考)。ウマイヤ朝がイベリア半島を征服する前の西ゴート王国がイベリア半島の全土を支配したのは、621年〜718年の約100年間です。テオドシウス帝が、キリスト教をローマ帝国の国教としたのが380年なので、「キリスト教国」の支配下にあったのは約300年余ということになるでしょうか。 現代のアンダルシア州は、8つの県で構成される人口約800万人の州です。主要都市は、人口の多い順番にセビリア(約70万人)、マラガ(約57万人)、コルドバ(約33万人)、グラナダ(約24万人)などがあります。アンダルシアは、イスラムの支配が長かったため、イスラム支配期の史跡が多く残っています。 代表的なものに、世界的に有名なグラナダのアルハンブラ宮殿等があり、今回の短訪問はこれらの史跡を見ることが主な目的です。また、フラメンコ音楽や闘牛の発祥地でもあります。 出典:Wikipedia ■イスラムに関する書籍余談ですが、最近読んだイスラムに関係するいくつかの書籍の中で感銘を受けたものに、「コーランには本当は何が書かれていたか?」カーラ・パワー著(原題「If the Oceans Were Ink: An Unlikely Friendship and a Journey to the Heart of the Quran」)があります。キリスト教とユダヤ教のバックグラウンドがありつつ本人は宗教を持たないアメリカ人ジャーナリスト、カーラ・パワー氏(女性)が、インド出身のウラマー(イスラム法学者)アクラムとともに1年にわたってイスラムに関し語り、コーランを読み解いたものです。宗教的に厳格でコーランとイスラムの歴史に忠実なウラマーであるアクラムと、リベラルなカーラ・パワーの対話を通じて、イスラムに対する偏見に気がつかされます。 つづく |