シルクロードの今を征く Now on the Silk Road イスタンブル6・都市景観・建築 (Istanbul、トルコ) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、 公開予定日 2020年7月31日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
総合メニュー(西アジア) イスタンブル1 イスタンブル2 イスタンブル3 イスタンブル4 イスタンブル5 イスタンブル6 イスタンブル7 イスタンブル8 イスタンブル9 イスタンブル10 イスタンブル11 イスタンブル12 イスタンブル13 イスタンブル14 イスタンブル15 次はトルコのイスタンブル6の都市景観・建築です。 ◆イスタンブル6・都市景観・建築 都市景観 もともとはイスタンブルの郊外でヤリィ(英語版)と呼ばれる邸宅がボスポラス海峡 沿いに建ち並び、現在ではイスタンブルの高級地区の一部。 Ankara - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる Source:Wikimedia Cmmons ファティ地区はオスマンに征服されるまでガラタのジェノヴァ共和国の要塞がある街全体と一致しています。ジェノヴァの要塞は19世紀には街の北側へ市街地を拡大するため大部分が取り壊され、唯一ガラタ塔だけが残っています。ガラタは現在の行政区ではベイオール地区に含まれ、タクスィム広場周辺部はイスタンブルの商業や娯楽の中心地となっています。 ドルマバフチェ宮殿はオスマン期の統治の中心で、ベイオール北のベシクタシュ地区にあります。そこを越えた場所にあるイニョニュ・スタジアムはトルコでは最古のスポーツクラブであるベシクタシュJKが本拠地としています。 以前は村であったオルタキョイはベシクタシュ地区内にあり、オルタキョイモスクの名称にも含まれボスポラス海峡に沿った第1ボスポラス橋近くに位置しています。 ボスポラス海峡に岸に沿って並んだ北側のヤリィは豪華なシャレーの邸宅は19世紀に貴族やエリート階級の夏の離宮として建てられました。さらに内陸や市内の環状道路の外側にあるレヴェントやマスラクはイスタンブールの重要な経済の中心です。 オスマン期、ユスキュダルやカドゥキョイはイスタンブールの郊外で、駐屯地や海辺の別荘、庭園がある静かな場所でしたが20世紀の後半になるとアジア側も急速な都市化を経験し、市内の他の住宅地区と比較して後に開発されたこの地区はより良いインフラと都市計画に至っています。 ボスポラス海峡のアジア側の多くは経済や商業が中心のヨーロッパ側の郊外として機能し、市内の人口の3分の1を占めますが雇用は4分の1を占めるだけです。 20世紀のイスタンブルの急速な成長の結果、市内の相当な部分でゲジェコンドゥ(一夜建て)と呼ばれる不法建築物が構成されています。現在では徐々にいくつかのゲジェコンドゥが占める地区は取り壊され、現代的な大規模住宅群に置き換わって来ています。 イスタンブルのスカイライン Ben Morlok - Istanbul panorama, CC 表示-継承 2.0, リンクによる Source:Wikimedia Cmmons イスタンブルには他の大都市のように主要な都市公園はない多くの緑地が広がっています。ギュルハーネ公園やユルドゥズ公園はもともとトプカプ宮殿やユルドゥズ宮殿などイスタンブルの2つの宮殿の土地に含まれていましたが、トルコ共和国になり初期の10年間で公共の公園に利用されるようになりました。 フェテヒ・パシャ・コルスはアナトリアのボスポラス橋に隣接したユルドゥズ宮殿反対側の丘の斜面に位置しています。 ヨーロッパ側に沿ったファティ・スルタン・メフメト橋に近いエミルギャン公園はもともとはオスマンの指導者の私有地に属しており、47haの公園内には多様な植物があり、2005年以来毎年チューリップ祭が催されています。イスタンブルっ子 Istanbulites に夏の間、ポピュラーな場所にはベオグラードの森が含まれ市の北縁の 5,500ヘクタール (14,000エーカー) を占めています。森林はもともとビザンティンやオスマンの時代に市内に水を供給するための貯水池として使われ今でも残っています。 建築 元々は大聖堂で後にモスクに変わったアヤソフィアは現在は博物館。6世紀に建てられる。 Jerzy Kociatkiewicz from Colchester, United Kingdom - Hagia Sophia, CC 表示-継承 2.0, リンクによる Source:Wikimedia Cmmons イスタンブルは主としてビザンティンやオスマンの建築物で知られていますが、その建物はそれ以前に街を支配した様々な人々や帝国を反映しています。例えば、ジェノヴァやローマの建築はイスタンブルではオスマンに相対する物として見ることが出来ます。 古代のギリシア建築は何も残らなかったのですが、ローマ建築はより耐久性があることが証明されています。コンスタンティノープル競馬場(ヒッポドローム)からのオベリスクは今でもスルタンアフメト広場で見られ、ヴァレンス水道橋の一部の区間は4世紀後半に建てられましたが、比較的手付かずでファティ地区の西縁に残っています。 コンスタンティヌスの円柱は330年に新しいローマ帝国の首都を記すため建てられましたが、ヒッポドロームからそう遠くない場所に今でも建っています。 初期のビザンティン建築は古典様式のローマのドームやアーチをモデルとし受け継いでいましたが、聖セルギウス・バッカス教会(リトルアヤソフィア)ではこれらの要素に改良がなされました。イスタンブルで現存する最古のビザンティン建築は廃墟ではありますが後にイムラホルモスクに転換された454年に建てられたストゥディオス修道院です。 1261年にコンスタンティノープルが奪回されるとビザンティン様式は今でも現存する最も重要なコーラ教会とパンマカリストス教会(に拡大しています。それでも、イスタンブルで最も象徴的なビザンティン様式の建築物の頂点の一つはアヤソフィアで、一番上のドームは直径31mもあり、アヤソフィアはモスクに変わる前は1,000年以上にわたり世界最大の大聖堂であり、現在は博物館になっています。 イスタンブルに現存する最古のオスマン建築にはアナドル・ヒサルやルメリ・ヒサルなどの城塞が含まれ、コンスタンティノープルの市街をオスマンが包囲する際の助けとなりました。4世紀の間にわたって、オスマンは高くそびえるモスクや華麗な宮殿を建築しいつまでも残るイスタンブールの印象的な街並を作って行きました。 最大の宮殿であるトプカプ宮殿は内部のバロック様式のハレムから新古典主義建築のエンデルーン学校(図書館)など多種多様な建築様式が含まれています。オスマン帝国のモスクにはスルタンアフメト・モスク(ブルーモスク)やスレイマニエ・モスク、イェニモスクが含まれ、これら全ては16世紀から17世紀にオスマン帝国の隆盛期に建てられています。 後の世紀、特にタンジマートの改革期にはオスマン様式の建築物はヨーロッパ様式のものに変わっています。 イスティクラル通り周辺の地区は壮麗なヨーロッパの大使館や新古典様式やネオルネッサンス建築、アール・ヌーヴォー建築の通りで満たされています。ベイオールの建築物は教会や店舗、劇場、公的な建物であるドルマバフチェ宮殿などが含まれています。 イスタンブル7へつづく |