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歴史短訪、新羅の首都慶州 10

Histric short visit to Gyeongju, Hometown of Silla

石窟庵、修復問題

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2015年8月30日
独立系メディア E−wave Tokyo

無断転載禁
歴史短訪、新羅の首都慶州 2015.6.23-25
1 日程概要 8 石窟庵 15 仏国寺伽藍@ 22 海印寺の歴史 29 八万大蔵経A
2 新羅の古墳群 9 如来坐像 16 仏国寺伽藍A 23 海印寺の周辺 30 八万大蔵経B
3 皇帝パン 10 修復問題 17 境内風景 24 伽藍の概要 31 八万大蔵経C
4 雁鴨池@ 11 仏国寺概要 18 慶州で青磁 25 大寂光殿 32 釜山へ
5 雁鴨池A 12 仏国寺の門 19 海印寺へ 26 大毘慮殿 33 釜山臨海部@
6 雁鴨池B 13 仏国寺石橋 20 トレッキング 27 梵鐘閣 34 釜山臨海部A
7 雁鴨池C 14 多宝塔と釈迦塔 21 海印寺の門 28 八万大蔵経@

 実際銅だったのかは分かりませんが、以下は、石窟庵の修復を巡る問題です。

◆石窟庵の修復を巡る問題

日本による修復
 日本統治時代の1913年から1915年にかけ、日本により三度にわたる大規模な修復工事が行われまそた。最初の補修後に湧水が発見され、排水溝が設置されました。

 韓国では、日本の補修でセメントを使用した結果、換気が難しくなり、石窟内に溜まった水によりセメントが溶かされて花崗岩の彫像が侵食されたり、本尊仏の下の地下水を集めて排水する機構が失われて地下水で冷やされた石に水分が凝固するなどの問題が生じた、としています。

 しかし、1944年には、現地調査に基づく石窟庵研究書である米田美代治の「朝鮮上代建築の研究」が発行されており、補修後20年を経た日本統治時代終盤でも石窟庵に異常はなかったと考えられています。 京城で展示するために分解移動した後、復元を誤ったためにいくつかの石材は余分になり、元の姿が失われることとなりました。


韓国による補修
 朝鮮戦争前後の混乱期に再び放置されたが、1961年から1963年にかけて韓国の文化財管理局の主導で補修工事が行われました。湿度の問題を改善するため、後部をさらにセメントで塞ぎ、全面をガラス張りにして人工的に除湿しましたが、見物客から排出される二酸化炭素などによる花崗岩の損傷が指摘されることとなりました。また、1961年に建てられた木造の前室も換気を妨げる要素とされています。

 また、仏像の配置は日本がデタラメに並べたとして、仏教の経典に照らし合わせ、独自の並べ替えを行いました。しかし、その補修後、発見当時の石窟庵の写真および事前調査の詳細な配置図が見つかり、日本が行った補修・配置が正しかったことが発覚しています。しかし配置は今なお復元されていないようです。


現在
 石窟入口はガラス板で覆われ、内部に入れなくなっています。そのため一般者は前室からガラス越しに見学するしかありません。石窟の周囲には、分解移動後の杜撰な作業により配置する場所がわからなくなった石材が展示されています。


分解移動後の杜撰な作業により配置する場所がわからなくなった石材
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015年6月24日


分解移動後の杜撰な作業により配置する場所がわからなくなった石材
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015年6月24日


ソックラム 石窟庵 (トリップアドバイザー提供)

 本尊の仏像は現在釈迦如来と認識されていますが、阿弥陀如来か釈迦如来かは韓国でも議論があるようです。なお新羅時代の寺院の本尊は毘盧遮那仏か阿弥陀如来である場合が多いといわれています。

出典:写真以外はWikipedia


ソックラム 石窟庵 (トリップアドバイザー提供)

 私達は日本国内でも芝増上寺や上野寛永寺の灯籠が終戦後、西武関係者により勝手もちだされ、東京、埼玉、千葉などの宗派の違う寺院に移設されるだけでなく、分解移動後の杜撰な作業により配置する場所がわからなくなった石材が寛永寺(東京都台東区上野)や長命寺(東京都清瀬市)に放置されているのを見ています。

 これらは非常に残念なことと思います。

 以下は石窟庵から石段を降りてきたところにありました壽光殿です。

 『寿光殿』の大きな文字の落款の日付は、「壬午仲秋」、名前は「白岳樵夫申合熙」とのことです。日本では、例えば文政壬午は文政5年(1822)、あとは60年飛びの明治の1882年、昭和の1942年が壬午になるようです。

 なお、落款(らっかん)は、落成款識(らくせいかんし)の略語を意味します。書画を作成した際に製作時や記名 識語(揮毫の場所、状況、動機など)、詩文などを書き付けたもの、またその行為を言います。

 その文を款記といい、その時捺す印章を落款印と言います。慣習上、署名として押捺された印影、または署名に代えて押捺した印影をさすことも多いようです。署名用の印そのものを落款と称することもあります



石窟庵から石段を降りてきたところにありました壽光殿
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015年6月24日

 下は壽光殿の前に下の写真のようにピンク、グリーン、イエローの3色のぼんぼりのようなものが沢山ありました。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015年6月24日

 写真にありますカラフルなボンボリですが、調べたところ、どうもお釈迦様の誕生を祝う飾りとか、花祭りの提灯飾りのように見えます。

 ただ、時期が違うので花祭りの飾りではないかもしれません。石窟寺の飾りはこれに見えます。名残の飾りだったのかもしれませんね。もっと低いところにあったものは、お願い事を書いた紙だったように記憶しています。

 下の写真は、壽光殿よりさらに下がった地点から見た石窟庵です。山に霧がかかって、深山幽谷の趣があります。ここからもカラフルなボンボリが二段に渡り見えます。



撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015年6月24日

 下の2枚は同行の学芸員が撮影した写真です。


撮影:学芸員 Nikon Coolpix S6400 2015年6月24日


撮影:学芸員 Nikon Coolpix S6400 2015年6月24日

 この後、私達は石窟庵の近くにある仏国寺に向かいます。


つづく