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●2月16日(火) 終日:ヴィリニュス・杉原千畝記念碑
旧市街の主な教会、大聖堂、主要建築物を視察した後、かの日本領事の杉原千畝氏の記念碑があるという新市街の川の畔に行く。新市街の川縁にも下の写真のような教会がある(名称は今のところ不明)。
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 16 Feb. 2010
バルト3国は、すでにEUに加盟している。しかし、日本人の圧倒的多くには、バルト3国はほとんど知られていない国々といえるだろう。
2月という一年を通じて最も気温が低く厳しい時期とはいえ、バルト3国旅行中、ひとりも日本人に会わなかったことから見ても、日本そして日本人にはあまりなじみがない国と言える。
だが、バルト3国の一番南に位置し、ポーランドと国境を接するリトアニアでは、第二次世界大戦中、ナチスドイツによるユダヤ人などの大量強制収容と大量虐殺が起きている。
その中で日本人の外交官である杉原千畝領事が日本政府の意向に背いてまで、大量の日本行きビザを発行した。そして結果的に多くのユダヤ人らの人命を救ったことは現地ではつとに有名である。
日本人が海外で日本人であると言う理由だけで尊敬の念を抱かれることは、今までほとんど経験がない。しかし、今回の旅行を通じリトアニアではまさに、それを感ずることが出来た。杉原氏はまさに日本人の誇りである。
■杉原 千畝(すぎはら ちうね) SUGIHARA "Sempo" Chiune、1900年(明治33年)1月1日 - 1986年(昭和61年)7月31日)は日本の官僚、外交官。 日本軍の樋口季一郎陸軍中将と共に、多くのユダヤ人を救った日本人として知られている。 第二次世界大戦の際、外務省の命令に反してユダヤ人が亡命できるようにビザを発給。ナチス政権下のドイツによる迫害を受けていたおよそ6,000人にのぼるユダヤ人を救ったことで知られ、勇気ある人道的行為を行ったと評価されている。 外交官時代の杉原千畝 海外では、センポ・スギハラ、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる。「ちうね」という名の発音のしにくさから、千畝自身がユダヤ人に音読みで「センポ」と呼ばせたとされている。 出典:Wikipedia |
■動画:杉原千畝と「命のビザ」
■リトアニア赴任から「命のビザ」発給まで 1940年(昭和15年)夏、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ人が、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。しかし同じく反ユダヤ人的な政策を取っていたソ連がリトアニアを併合し、各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先オランダ領アンティルへの通過ビザを求めて殺到した。 当時、「ユダヤ人に対しては、一般の外国人入国取締規則の範囲内において公正に処置する」こととされており、また、杉原に対して「通過査証は、行き先国の入国許可手続を完了し、旅費及び本邦滞在費等の相当の携帯金を有する者に発給する」との外務本省からの指示があった。 杉原は、この指示に係る要件を満たしていない者に対しても通過査証を発給した。 日本政府はドイツとの同盟関係にあり、ドイツからユダヤ人に対する迫害政策に協力することを再三求められていたにもかかわらず、ユダヤ人に対する中立的な政策を公式に取っていた。 しかし、通過ビザの発給を受けるためには十分な旅費を備えるなど規定の条件を満たすことを要求していた。これは「外務省ユダヤ難民取り扱い規則」により、表向きはユダヤ難民を他の難民と公平に扱う中立さを装いつつ、ビザの発給資格を異常に高くすることでユダヤ難民を事実上締め出すことを狙っていたからである。 ユダヤ人難民の殆どはこの受給資格を欠いていたため、杉原は本国外務省に伺いを立てるが、発給は許可されなかった。 1940年7月18日に、杉原は外務省に緊急のビザ発給許可要請をするも、翌日に届いた返答は「ビザの許可は内閣改造中ゆえ発給できない」というものであった。 新内閣の発足後、松岡洋右外務大臣に直接、人道的なビザ発給の許可要請を再度行うも、7月23日には、親ドイツ派の松岡外相直々にヨーロッパ各国の大使館・領事館に「難民へのビザ発給は許可できない」という通告が発せられた。 それは杉原にとっては事実上の最後通告であった。また同時期、ソ連からリトアニア併合に伴う日本領事館の閉鎖通告がなされていた。 こうした政府方針、外務省の指示に背いて、1940年7月25日、杉原は日本通過ビザを要件の整わないユダヤ人たちにも半ば無制限に発給することを決断。 ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながらも、杉原と妻の幸子はベルリンへ旅立つ9月5日までおよそ1か月余りビザを書き続けたとされる。その間発行されたビザの枚数は、番号が付され記録されているものだけでも2139枚。 また、次第に日本領事館の閉鎖日が近づくとともに作業の効率化のため、途中から記録するのを止めてしまったと言われている。その為、実際には記録に残っているビザ以外にも数千枚のビザや渡航証明書が発給されたと言う説もある。 また、1家族につき、1枚のビザで十分であったため、家族を含めて少なくとも6,000人ものユダヤ人の国外脱出を助けたとされる。 なお、杉原自身は「リトアニア人及びポーランド人に発給した通過査証は2132件であり、このうちユダヤ系に対するものは約1500件と推定される」旨を外務省に対して報告している。 途中ビザに貼り付ける印紙が無くなってしまったが、杉原は職権により「出国のための領事特別許可証(通過ビザと同様の内容。ビザより発行要件が簡素で、迅速な出国の必要があるときなど緊急時に用いられるが超法規的意味合いが強い)」の発行を行い、ソ連による自身への退去指示の期限ぎりぎりまで更に多くのユダヤ人を出国させた。 領事特別許可証による出国者は多数に上るが、発給記録が残っていないため人数は定かではない。領事特別許可証の発行は、ベルリン行き列車の出発寸前まで駅のホームで続けられた。 出典:Wikipedia |
実はリトアニアには、日本領事館があった古都カウナス(Kunas)だけでなく、首都ヴィリニュス(Vilnius)にも随所に杉原千畝領事の彫像や記念碑がある。博物館や記念館にも杉原千畝領事についてコーナーがある。
2月16日の夕方、新市街地の大型スーパー、カジノ・ホテルの並びのネリス川沿いのところにある故杉原千畝氏の石碑に行く。雪が深くなかなかたどり着けない。
下はリトアニア旧市街と新市街の間を流れるネリス川の畔にたつ杉原千畝領事の記念碑と、その前にたつ池田さん。積雪は50cmある。この場所は川風が吹くネリス川の河畔なので一段と凍てつき寒い。
杉原千畝領事の記念碑の前で(池田こみち)
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 16 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 16 Feb. 2010
杉原千畝領事の記念碑の前で(青山貞一)
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 16 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 16 Feb. 2010
下は杉原千畝氏の記念碑があるネリス川の畔である。ヴィリニュス一帯を見渡せる現地は積雪が多く、記念碑に到達するまで新市街の駐車場から50cm近くの雪の中を10分ほど歩いた。
左奥にある権威主義的なビルは、スターリン時代にソ連から送られたビル(推定)と思われる。
杉原千畝氏の記念碑があるネリス川の畔にて
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 16 Feb. 2010
上の写真の左端を拡大すると以下のようになる。
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 16 Feb. 2010
下の写真は杉原千畝氏の記念碑がある新市街を旧市街側から撮影したもの。新市街には超高層ビジネスビルが林立している。ネリス川は凍結しており、その上に雪が積もっていた。新市街に通ずる橋は、車は通行不可で人のみが通行できる。
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 16 Feb. 2010
つづく
【参考資料】
・地球の歩き方、「バルト3国、エストニア・ラトヴィア・リトアニア」、ダイヤモンド社
・Wikipedeia English Edition