エントランスへはここをクリック   

バルト3国現地調査 リトアニア
ヴィリニュス:KGB(絶滅)博物館@

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda

10 April 2010 無断転載禁
初出:独立系メディア「今日のコラム」

デンマーク リトアニア ラトビア エストニア フィンランド  特集全体
【リトアニア・ヴィリニュス】 【リトアニア・カウナス】
ヴィリニュス到着 ヴィリニュスからカウナスへ
ヴィリニュスの概要 カウナスの概要
【ヴィリニュス歴史地区】 【カウナス第9要塞博物館】
旧市庁舎から夜明けの門 第九要塞博物館@
ヴィリニュス大聖堂 ナチス・ドイツによるバルト3国殺害数
聖ヨハネ教会とヴィリニュス大学 第九要塞博物館A
ヴィリニュス大学周辺の教会 バルト3国におけるユダヤ人虐殺
聖アンナ教会と聖ミカエル教会 【カウナス歴史地区】
聖ペテロ・パウロ教会 カウナス市街へ
杉原千畝記念碑 聖ペテロ・パウロ大聖堂
3つの十字架の丘 旧市庁舎・ヤコブ教会
【ヴィリニュス博物館】 カウナス城・ネムナス川
KGB(絶滅)博物館@ 【シャウレイ・十字架の丘】
KGB(絶滅)博物館A カウナスから「十字架の丘」へ
KGB(絶滅)博物館B シャウレイの丘
国立ユダヤ博物館 「十字架の丘」の歴史

●2月17日(水) ヴィリニュス、KGB博物館

 翌朝、2010年2月17日(水)は午前中にヴィリニュスでKGB博物館(正式にはGenocide Museum)と国立ユダヤ博物館(通称、グリーンハウス)を視察する。

 そしてこの日の午後は、ヴィリニュスから西に約100km離れたカウナスに行き、ナチス・ドイツがリトアニアのユダヤ人等を強制収容し、殺害したという第九要塞(Devintojo Forto Muziejus)を訪問する予定だ。

 ヴィリニュス郊外のホテルの1階レストランに行く、午前7時30分に朝食を取る。このホテルはリーズナブルで朝食もすばらしい。

 その後、ホテルをチェックアウト。

 この後、KGB博物館があるゲディミノ大通りに車で行く。その前に懸案の両替をする。ユーロから現地通貨のリタスへの両替だ。1ユーロはおおよそ3.5Lt、1Ltはおおよそ36円だ。物価の印象は、日本の1/3から1/2といったところか。

 2月17日、2月18日はいずれもリトアニアに滞在することになる。夕食などの食事はVISAカートで対応するものの、問題は現地通貨のコインしか通用しない駐車料金だ。これを念頭に両替をする。ホテルの建物の一角に銀行(Swedbank)があるので、そこで両替をする。


ホテルの並びに銀行(Swedbank)

 両替はしたものの小銭(コイン)をくれないので、その後も駐車に苦労する。

 ホテルからKGB博物館の近くに行き、駐車場を探すがなかなか見つからない。ゲディミノ大通りは終日全面的に駐車禁止である。

 あれこれ試行錯誤したが、結局、一般道路には駐車できないことが分かった。かといってヴィリニュス市街では駐車場もないのでどうしようもない。

 そこで昨日、杉原千畝記念碑がある川向こうに車を置くことにする。ゲディミノ大通りから歩いてネリス川の向こう岸にある娯楽施設の駐車場に車を置くことにした。

 この駐車場はお札で駐車料金が払えるから安心だ。車を置いてゲディミノ大通りにあるKGB博物館に向かう。開館は午前10時。

 日本で事前に調べたら、国谷や自治体は9時前から開いているが、大部分の博物館や資料館は午前10時にならないと開かず、一方、閉館は午後3時あるいは4時とやたらと早く閉まる。いったいどうなっているの?
 
 
KGBビルの前の公園にて。ここも大雪だ!

 ここで旧ソ連時代のKGB(ソ連国家保安委員会)について、以下に簡単におさらいしておこう。

■KGB (ソ連国家保安委員会、英: Committee of national (state) security)

 KGBは1954年からソ連崩壊(1991年)まで存在したソビエト社会主義共和国連邦の情報機関・秘密警察。軍の監視や国境警備も担当していた。東西冷戦時代にはアメリカ・中央情報局(CIA)と一、二を争う組織と言われていたが、ソ連崩壊と同時にロシア連邦保安庁に権限を移行した。日本での略称は КГБ を翻字した KGB(英: ケージービー、独: カーゲーベー)が使われることが多い。


これはソ連のKGB本部。ルビヤンカ広場に建つ旧KGB本部庁舎。
アレクセイ・シューセフが設計した。


歴史

 ロシア革命直後、レーニンの命を受けたフェリックス・ジェルジンスキーが「反革命・テロ・サボタージュ取り締まりのための全ロシア非常委員会」(「チェーカー」)を創立する。

 そのため、ソ連崩壊(12月)直前の1991年8月までジェルジンスキーの大きな銅像が正面に建てられていた。 本部はルビヤンカ広場の全ロシア保険会社のビルとなった。部員からは「ツェントル」(ロシア語: центр、中央)と呼ばれ、国民からは「オルガン」(ロシア語: орган、機関)と呼ばれた。その後、国家政治局(GPU)や、統合国家政治局(OGPU)、スターリンの最側近ラヴレンチー・ベリヤが指揮する内務人民委員部(NKVD)、第二次世界大戦中の国家保安人民委員部(NKGB)、戦後の国家保安省(MGB)を経て、一時内務省(MVD)に統合される。

 1954年3月13日、内務省に統合されていた国家保安機能が再び独立し、国家保安委員会 (KGB) が設立された。1978年までは、ソ連閣僚会議附属機関。当時のソ連では、党、軍、そしてKGBを掌握することが最高権力者の必須条件と言われた。特に1967年から15年間議長を務めたユーリ・アンドロポフは当時のソ連政府における最重要人物の一人であり、1982年には書記長に就任している。

 1991年、共和国間保安庁(後のロシア連邦保安庁)、中央情報庁(後のロシア対外情報局)、国境警備委員会に分離され消滅した。

 ソ連崩壊後、CIS各国は、ソ連構成共和国のKGBを継承して、独自の諜報・防諜機関を創設した。カザフスタン、トルクメニスタン等、一部の国では、スラブ系職員が排除されている。

 なお、バルト三国では、元KGB職員はほぼ完全に排除され、主としてドイツの連邦情報庁・連邦憲法擁護庁を手本に諜報・防諜機関を創設した。


 KGB組織の任務は以下の通り。

・資本主義諸国における諜報業務
・スパイ、破壊工作、テロその他の破壊活動対策
・反ソ及び民族分子の敵対活動対策
・ソ連軍、海軍、空軍、国境軍及び内務省軍における防諜業務
・特殊施設、特別重要産業施設及び輸送機関における防諜業務
・国境警備
・党及び政府の指導者の警護
・政府通信の組織及び保障
・無線防諜業務の組織

 1967年12月当時のKGBの組織。

  • 第1総局 - 対外諜報
  • 第2総局 - 国内保安、防諜
  • 第3局 - 軍事防諜
  • 第5局 - 政治・イデオロギー問題
  • 第7局 - 外部監視
  • 第8総局 - SIGINT
  • 第9局 - 要人警護
  • 作戦技術局
  • 人事局
  • 取調課
  • 第10課 - 登録、公文書
  • 第11課
  • 第12課 - 家屋、電話通話の監督
  • 第13局 - 特殊工作・非合法活動(暗殺等)
  • 国境軍総局 - 国境警備隊
  • 経済局
  • 政府通信課 - 通信保安
  • 会計・計画課
  • 動員課
  • 官房
  • 議長附属監察局
  • 議長附属諮問部会
 KGBの詳細は、以下が非常に詳しい。

 
◆KGB(ソ連国家保安委員会)

NKVD 内務人民委員部

 ソビエト連邦のスターリン政権下で政治警察、刑事警察、国境警察、諜報機関を統括する国家機関。エヌカーヴェーデーと略称される。

 NKVD の一部門である秘密警察の起源は、1917年にレーニンによって設立されたチェーカーまで遡る。これは1922年に、GPU(国家政治局)となり、1924年にはOGPU(合同国家政治局)に改組され、1934年に内務人民委員部の一部となり、スターリンの死後、1954年に再独立して KGB と成る。

 1934年、ゲンリフ・ヤゴーダが長官職に就き、党や軍内部の粛清にあたるが4年で更迭されヤゴーダ以下部下の大半が処刑された。

 後任にニコライ・エジョフが就任し、「エジョフ時代」と呼ばれる恐怖体制を敷いた。この時代に粛清は一般市民にまで拡大し、密告の推奨により市民相互が監視生活を強いられた。

 NKVD 関係者へは絶えずスパイの嫌疑がかけられ、処罰の手は厳しく、外事活動に関わったものはほとんど強制労働収容所に送り込まれた。特に1938年の大粛清時には外事担当の大幅入れ替えがあり、エジョフが見せしめ裁判で銃殺されるという異常事態に至った。

 スターリンと同郷であるグルジア出身で、エジョフ長官時代の副長官であったラヴレンチー・ベリヤがその後、NKVD が国家保安省(MGB)に改組されるまで長らく長官の地位に就いた。

 大祖国戦争において、NKVDは最前線で士気の維持やスパイの摘発に当たった。また、スターリングラード攻防戦などではスターリン直々の「退却阻止命令」を盾に容赦なく、逃亡兵を銃殺した。占領地における強制収容所の管理も担当しておりカティンの森事件などの虐殺を引き起こすこととなった。

レフ・トロツキーを暗殺したナウム・エイチンゴンとソ連原爆獲得工作の指揮官であったパーヴェル・スドプラートフらは NKVD の高級将校であった。

■KGBとリトアニアなどバルト3国との関係

 リトアニアを含むバルト3国との関連では、ロシア革命後の1918年、バルト3国はロシアから独立を達成する。しかし、独立運動が自由にできるようになった。にもかかわらず、真の独立はなかなか達成されなかった。

 すなわち、1939年、独ソ間の密約によって翌年、バルト3国はソ連に併合させられる。

 その後、バルト3国では各地で反ソ連の運動や蜂起が繰り返し起こされたが、最終的にそれらの運動は鎮圧され、多くの反ソ連の運動家や活動家がシベリアの強制収容所に送られることになった。

 このように、バルト3国は一旦独立を達成したのだが、その後、無理矢理にソ連に併合させられたことになる。

 この点がバルト3国以外のソ連構成国、たとえばウクライナ、ベラルーシュ、カザフスタンなどと違う点である。


 ソ連がリトアニアを占領統治していた 1940年から1991年の間、この建物はNKVDとKGBの強制刑務所として利用されてきた。そして何千人もの罪のない人々が強制終了されるだけでなく、ビルの地下などで虐待された。またこのいわゆるKGBビルは、シベリアなどに大量追放、大量拘束のための計画が練られた場所でもある。

 このような隷属的、殖民地的なソ連とバルト諸国との歴史に終止符を打つのは、ゴルバチョフの登場以降であった。

 ソ連崩壊後、CIS加盟各国は、ソ連構成共和国のKGBを継承し、独自の諜報・防諜機関を創設した。カザフスタン、トルクメニスタン等、一部の国では、スラブ系職員が排除されている。

・ウクライナ - ウクライナ保安庁、ウクライナ対外情報庁
・ベラルーシ - ベラルーシ国家保安委員会
・モルドバ - モルドバ情報・保安庁
・アゼルバイジャン - 国家保安省
・アルメニア - 国家保安庁
・グルジア - 対外情報庁
・ウズベキスタン - 国家保安庁、対外情報庁
・キルギス - 国家保安庁
・タジキスタン - 保安省
・トルクメニスタン - 国家保安省
・カザフスタン - カザフスタン国家保安委員会


つづく


【参考資料】
・地球の歩き方、「バルト3国、エストニア・ラトヴィア・リトアニア」、ダイヤモンド社
・Wikipedeia English Edition