【リトアニア・ヴィリニュス】 | 【リトアニア・カウナス】 |
ヴィリニュス到着 | ヴィリニュスからカウナスへ |
ヴィリニュスの概要 | カウナスの概要 |
【ヴィリニュス歴史地区】 | 【カウナス第9要塞博物館】 |
旧市庁舎から夜明けの門 | 第九要塞博物館@ |
ヴィリニュス大聖堂 | ナチス・ドイツによるバルト3国殺害数 |
聖ヨハネ教会とヴィリニュス大学 | 第九要塞博物館A |
ヴィリニュス大学周辺の教会 | バルト3国におけるユダヤ人虐殺 |
聖アンナ教会と聖ミカエル教会 | 【カウナス歴史地区】 |
聖ペテロ・パウロ教会 | カウナス市街へ |
杉原千畝記念碑 | 聖ペテロ・パウロ大聖堂 |
3つの十字架の丘 | 旧市庁舎・ヤコブ教会 |
【ヴィリニュス博物館】 | カウナス城・ネムナス川 |
KGB(絶滅)博物館@ | 【シャウレイ・十字架の丘】 |
KGB(絶滅)博物館A | カウナスから「十字架の丘」へ |
KGB(絶滅)博物館B | シャウレイの丘 |
国立ユダヤ博物館 | 「十字架の丘」の歴史 |
●2010年2月18日(木)シャウレイの続き
私たちが「十字架の丘」に行ったのは厳寒の真冬だが、これが夏だと以下のようになる!
出典:現地で入手した資料より
出典:「5万以上もの十字架で埋め尽くされている丘」より
次に、リトアニア・シャウレイの「十字架の丘」の歴史を見てみよう。
歴史によれば、最初に十字架が置かれたのは、リトアニアによる帝政ロシア(ロマノフ朝)への一斉蜂起のあと、処刑や流刑にされたリトアニア人のために置かれたようだ。
それ以降、「十字架の丘」は、歴史上絶えず他国から抑圧され虐げられてきたリトアニアの民族そして宗教の心の故郷となってきたという。
出典:「5万以上もの十字架で埋め尽くされている丘」より
ソ連時代には「十字架の丘」は禁止された。かのソ連のKGBと軍隊はブルドーザーで何度も破壊したが、その都度リトアニアの人々は、新たな十字架を立てたという。ソ連はさまざまな方法で、「十字架の丘」を壊す工作を行ったものの、リトアニア国民はそれにもめげず、十字架を立て続けた。
出典:「5万以上もの十字架で埋め尽くされている丘」より
そして現在も十字架、ロザリオの建立、寄進は一層活発となっている。諸外国に移民したリトアニア人が母国に帰ったとき、この聖地に来て十字架やロザリオを残してゆくのだそうだ。
出典:「5万以上もの十字架で埋め尽くされている丘」より
■「十字架の丘」の歴史 その発祥は分かっていないが、初めてここに十字架が建てられたのは1831年のロシアに対する11月蜂起の後であると考えられている。 数世紀を経て、十字架だけでなくイエスの受難像やリトアニアの英雄の彫刻、聖母マリア像、肖像画、ロザリオなどもカトリックの巡礼者によって置かれるようになった。十字架の正確な数は分かっていないが、約50,000であろうと推測されている[2]。 かつてリトアニアのカトリック信仰は脅威にさらされたこともあったが、数世紀を経て、この丘はカトリック信仰の長い歴史を物語るようになっていった。 1795年の第3次ポーランド分割で、リトアニアはロシア帝国の領土下に置かれることとなった。ポーランド人とリトアニア人はロシアに対抗して蜂起を起こした(1831年の11月蜂起、および1863年の1月蜂起)が、いずれも失敗に終わる。 これら2つの蜂起はこの十字架の丘の始まりに関係している。反乱兵の家族が、彼らの遺体のかわりに十字架を丘に建てたのである 。 1918年、リトアニアは独立を回復。独立期、この丘はリトアニア人が平和や独立戦争での死者たちのために祈る場所となった。 十字架の数 1900年 130 1902年 155 1922年 50 1938年 400 以上 1961年 5,000 が破壊される 1975年 1,200 が破壊される 1990年 約 55,000 リトアニアがソ連の統治下にあった1944年から1990年、十字架の丘は特別な意味を持っていた。丘へ行き十字架を捧げることで、リトアニア人たちは彼らの宗教や遺産への忠誠心を示した。 それは、非暴力による抵抗を表していた。にもかかわらず、ソ連は3度にわたりブルドーザーでこの丘にある十字架を撤去しようとした。ムーシャ川の支流、クルヴェ川の近くにダムを建設するためにこの丘が水の中に沈んでしまう、という噂もあった 。 1993年9月7日、ヨハネ・パウロ2世法王がこの丘を訪れ、ここが希望と平和、愛、そして犠牲者のための場所であると述べた。 2000年、フランシスコ会の修道院がこの丘の近くに完成した。内部の装飾は、フランシスコの身体に聖痕が現れたとされるトスカーナのラ・ヴェルナのものと関連している。この丘は未だいずれの管轄にも属していない。そのため自由に出入りし、十字架を建てることができる。 出典:Wikipedia |
駐車場にお土産なの伯父さんが店を出していた。寒い中大変だ。十字架の丘に登って帰りにお土産を買うことにした。十字架とロザリオを買った。車の中でサンドイッチを食べた。
下はお土産屋でロザリオなどを買う池田さん。お土産屋のおじさんは、厳寒の中外で立ち続けていた。
十字架の丘の駐車場にあるお土産屋にて
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 18 Feb. 2010
十字架の丘の駐車場にあるお土産屋にて買った十字架
撮影:池田こみち Nikon CoolPix S8 25 Feb. 2010
十字架の丘の駐車場にあるお土産屋で買ったロザリオを
観音様にかけてみた
撮影:池田こみち Nikon CoolPix S8 25 Feb. 2010
ここでリトアニアのシャウレイを再出発し、ラトビアのリーガへと向かう。
途中国境を越えるが誰もいない。トラックは検査があるのか数台が並んでいた。
カウナス→シャウレイ→リーガ(ラトビア)は、今回の旅行で最も厳しい旅となったが、何とかリーガに到着。
つづく
【参考資料】
・地球の歩き方、「バルト3国、エストニア・ラトヴィア・リトアニア」、ダイヤモンド社
・Wikipedeia English Edition