【リトアニア・ヴィリニュス】 | 【リトアニア・カウナス】 |
ヴィリニュス到着 | ヴィリニュスからカウナスへ |
ヴィリニュスの概要 | カウナスの概要 |
【ヴィリニュス歴史地区】 | 【カウナス第9要塞博物館】 |
旧市庁舎から夜明けの門 | 第九要塞博物館@ |
ヴィリニュス大聖堂 | ナチス・ドイツによるバルト3国殺害数 |
聖ヨハネ教会とヴィリニュス大学 | 第九要塞博物館A |
ヴィリニュス大学周辺の教会 | バルト3国におけるユダヤ人虐殺 |
聖アンナ教会と聖ミカエル教会 | 【カウナス歴史地区】 |
聖ペテロ・パウロ教会 | カウナス市街へ |
杉原千畝記念碑 | カウナス旧市街・歴史地区@ |
3つの十字架の丘 | カウナス旧市街・歴史地区A |
KGB(絶滅)博物館@ | 【シャウレイ・十字架の丘】 |
KGB(絶滅)博物館A | 十字架の丘@ |
KGB(絶滅)博物館B | 十字架の丘A |
国立ユダヤ博物館 |
●2月17日(水) カウナスの概要
最初にカウナスの概要について解説しておこう。
カウナス
出典:グーグルマップ
ネムナス川のほとりにて
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 18 Feb. 2010
以下にWikipedeiaからカウナスの概要を示す。
■カウナス( Kaunas)とは リトアニア第二の都市で、ソ連併合以前のリトアニアの首都。人口は約36万人(2005年)。 リトアニアのほぼ中央に位置し、ネムナス川とニャリス川の合流点にある市の中心部は歴史的な町並で有名。 ワルシャワからリガ・タリンを通ってヘルシンキに到る高速道路「Via Baltica」の沿線にある。 歴史 カウナスの歴史は、少なくとも10世紀まで遡ることができ、現存する文書に登場するのは1361年である。 13世紀にはドイツ騎士団の攻撃から街を守る為に城壁が造られたという。1408年、マグデブルク法による特許を得て以後、重要な川港を擁する交易の中心地として発展を始める。 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 18 Feb. 2010 1441年、ハンザ同盟の都市となり、同盟の商業事務所が置かれた。 16世紀、リトアニア大公国の元で街は大きく発展した。17世紀から18世紀に掛けて、ロシア、スウェーデン、ナポレオン軍などの侵攻を受け、また疫病の流行などもあって街は荒廃した。 1862年、ロシアとドイツを結ぶ鉄道が開通すると、カウナスは重要な中継地点となり、1892年には最初の発電所が稼働を始めた。1919年、それまで首都であったヴィリニュスがロシアに占領されると、リトアニア政府はこの街に移転して来た。 そして翌1920年、ヴィリニュスがポーランドに併合されると、カウナスは正式に首都となった。 それから第二次世界大戦までの間、カウナスはリトアニア最大の都市として、工業的にも発展した。 大戦が始るとリトアニアを含むバルト三国はポーランド東部と共にソ連に占領されたが、間もなくドイツ軍が侵攻し街は破壊された。 戦後はソ連の一部となり、再び工業が盛んになった。リトアニアの工業生産の四分の一を担うまでになり、1966年にはトロリーバスが開通した。 1991年、ソ連の崩壊に先立って、リトアニアが独立すると、カウナスもその一部となり現在に至っている。 出典:Wikipedia |
19世紀のカウナスの景観
From Wikipedia, the free encyclopedia
カウナス城
From Wikipedia, the free encyclopedia
■カウナスの人口の変遷
- 1723年 28,000
- 1796年 8,500
- 1813年 3,000
- 1825年 5,000
- 1840年 8,500
- 1860年 23,300
- 1897年 71,000
- 1923年 92,000
- 1940年 154,000
- 1959年 214,000
- 1966年 275,000
- 1989年 418,087
- 2001年 378,943
- 2004年 366,652
- 2005年 361,274
■カウナスの民族の割合
現在、カウナス市民の多くはリトアニア人である。ただしかつて19世紀において、リトアニア人の割合はわずか 6.6 % にすぎなかった[注]。
各年度における民族の割合は以下の通り。
(注:ただし多くのリトアニア人は「ポーランド人」として扱われている)
リトアニアの古都、カウナスの聖ミカエル大聖堂
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 17 Feb. 2010
■ユダヤ人脱出拠点としてのカウナス
第二次世界大戦下、ドイツ軍侵攻に伴い隣国ポーランドから迫害を逃れて流入してきた大量のユダヤ人に対し、当時在カウナス日本領事館に領事代理として赴任していた杉原千畝氏は、盟邦ドイツへの配慮から査証発給を避けるよう訓令を発していた本国外務省の意向に反し、ユダヤ人に対して日本通過を可能とした査証及び渡航証明書を発給して欧州からの脱出を支援した。
杉原千畝氏の執務室(レプリカ)
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 17 Feb. 2010
外交官時代の杉原千畝
この件では最終的には数千人分にものぼる査証・渡航証明書が発給されたと言われている。
杉浦千畝氏については、本特集の杉原千畝記念碑 を参照のこと。
つづく
【参考資料】
・地球の歩き方、「バルト3国、エストニア・ラトヴィア・リトアニア」、ダイヤモンド社
・Wikipedeia English Edition