シルクロードの今を征く Now on the Silk Road サマルカンド3日目郷土史博物館 7 ユダヤ人の生活 Viloyai O'lkashunosilk Muzeyi 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2015年3月7日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
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アフラシヤブ(Afrosiab) 『後漢書』などの漢文資料では康国として表れ、昭武九姓の一つに挙げられ、王族は月氏の子孫とされています。玄奘三蔵や後世のアラビア語、ペルシア語の地理書によればソグディアナ、マーワラーアンナフルの中心と呼ばれています。
都市国家の連合体であったソグディアナではサマルカンドの支配者が、時には都市国家連合全体の盟主となることがあり、8世紀初頭にはサマルカンド王デーワーシュティーチュが「ソグドの王」を名乗っています。 712年にクタイバ・イブン・ムスリムによってウマイヤ朝のアラブ連合軍に征服され、イスラーム化が始まりました。 ![]() イスラーム時代を通じてブハラと並びマーラワーアンナフルの中心都市としてサマルカンドは発展しました。 751年のタラス河畔の戦いで捕虜となった製紙職人によって、759年にイスラーム世界で最初の製紙工場が営まれたのもサマルカンドと伝えられています。 1060年に成立した中国唐の歴史書新唐書西域伝には「康国は又の名を薩末あるいは颯秣建という」という意味の記載があります。以後サーマーン朝の支配を受け、11世紀にカラハン朝に征服されてからはテュルク化も始まります。 カラハン朝時代は有力王族の所領として、1210年頃にホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドによって西カラハン朝が滅ぼされその支配下となり、ムハンマドは首都をウルゲンチからこのサマルカンドへ移しました。 ![]() ![]() カラハン朝の版図 サマルカンドは商才に長けたソグド人の町としていくつもの王朝の支配を受けながらも、数世紀にわたって繁栄を続けてきました。しかし、十字軍戦争の影響を受けてシリア経由路が閉鎖された結果、インドから黒海に至る交通路を占めたホラズム・シャー朝の首都として繁栄していたサマルカンドは1220年、モンゴルによって徹底的に破壊され、人口の3/4が殺されました。 ![]() アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンド 出典:サマルカンド考古学博物館頒布資料 下の絵地図を見ると、アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンドは、中国の万里の長城のような城壁、それも三重の城壁に囲まれていたことが分かります。すでにアフラシヤブ(Afrosiab)考古学博物館のところで書いたように、このアフラシヤブ(Afrosiab)地域は考古学者等により発掘が進められており、多くの遺跡、文物が発見されております。 ![]() アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンド 出典:サマルカンド考古学博物館頒布資料 つづく |