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   シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

サマルカンド3日目

郷土史博物館6
ユダヤ人の生活
  Viloyai O'lkashunosilk Muzeyi

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda

掲載月日:2015年3月7日
独立系メディア E-wave Tokyo
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 ティムール朝後期は諸王家がサマルカンドを巡って争奪を繰り返すようになり、後のムガール朝の始祖となったバーブルも故地のフェルガナから度々自ら遠征してこの争奪戦に加わり幾度か領有しています。

 その後、1500年にジョチ・ウルス系のウズベク勢力であるシャイバーニー朝のムハンマド・シャイバーニー・ハーンによって征服された

 さらに。その後はジャーン朝などテュルク系のウズベク人の国家ブハラ・ハン国に属し、首都の地位はブハラに奪われましたが17世紀にはウルグ・ベクのマドラサと対になるシールダール・マドラサが追加され、現在のレギスタン広場が形成されるなど、中央アジアの主要都市のひとつとして機能しました。


レギスタン広場の一角にありますサマルカンドにあるウルグ・ベク・マドラサ(イスラム学院)
  出典:Wikipedia


レギスタン広場 (トリップアドバイザー提供)

 しかし、18世紀中頃からはウズベク諸政権内部の対立や周辺の諸部族の抗争、さらにイランからアフシャール朝のナーデル・シャーの侵攻を受けるなどしたために荒廃が激しくなりました。

 19世紀にはブハラ・アミール国の発展によって復興されたが、アミール・ナスルッラーが没してブハラからの支配が弱まると、1868年にはロシア軍に占領され、ロシア領トルキスタンに編入されました。

 サマルカンドはもともとブハラと同様イラン系であるペルシア語話者、すなわちタージーク(タジク人)の多い都市でしたが、ソビエト連邦時代の1924年、民族的境界画定によりウズベク・ソビエト社会主義共和国に区分され、1930年までその首都となりました。

 次に、民族学分野、とりわけウズベキスタン、サマルカンドと言えば、かのシルクロードの一大拠点であり、シルク織物のメッカでもあります。

 とくに現地で「スザニ」と呼ばれている木綿か絹のベース生地に、コットンかシルクの糸を使って刺繍がほどこされている織物は、有名でサマルカンド、ブハラなどウズベキスタンさらには中央アジア諸国の土産物としてもつとに著名となっています。

 刺繍にはチェーンステッチ、サテンステッチ、ボタンホールステッチの3技法が使われていますが、その他として縁取り用のカウチングステッチもあります。

  人気のモチーフは、チューリップ、カーネーション、アイリス等の花。葉っぱと枝、果物(特にざくろ)、太陽と月などで、ブハラの「夏の王宮」の土産物屋それにサマルカンドのリンギスタン広場のメドレサの中にあります土産物屋でも大々的に売っておりました。。

 ところで、このスザニは中央アジア諸国の嫁入り道具のひとつとなっており、結婚式の日、新郎にスザニを渡す習わしもあるようです。

 実際に「スザニ」を購入するのは難しく、柄と大きさがほぼ同じスザニでありながら、ブハラの「夏の王宮」の土産物屋では当初、1枚1万円と言っていましたが、サマルカンドのリンギスタン広場のメドレサの中にあります土産物屋では2500円と言っていました。いずれもコットンと絹の生地にコットンかシルクの糸を使って刺繍がほどこされている織物です。


S8  2015-3-3

つづく