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幻想の国北アフリカ
モロッコへの旅
Trip to Kingdom of Morocco, North Africa
マラケシュ・概要
Overview of Marrakech
青山貞一 
Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda

初出:
2 Feb 2014

独立系メディア E-wave Tokyo  無断転載禁



マラケシュの旧市街 Source:English Wikipedia

◆青山貞一・池田こみち: 幻想の国 北アフリカ モロッコ
   
1 モロッコ王国の基礎情報 18 フェス・マドラサ 35 カスバ街道:・バラの谷
2 モロッコの交通 19 フェス・技と巧(繊維織物) 36 ワルザザート 映画スタジオ
3 モロッコで出会ったネコ達 20 フェス・要塞から見た旧市街 37 アイット・ベンハッドウ1
4 カサブランカ・ムハンメドX世宮殿 21 フェス・技と巧(陶器工房) 38 アイット・ベンハッドウ2
5 カサブランカ・ハッサンU世モスク 1 22 フェスからイフレンへ ・絶景の旅1 39 アイット・ベンハッドウ3
6 カサブランカ・ハッサンU世モスク 2 23 イフレンからミデルトへ ・絶景の旅2 40 アイット・ベンハッドウ4
7 ラバト・首都 24 ミデルトからエルラシディアへ ・絶景の旅3 41 カスバ街道・アトラスに向かう
8 ラバト・ムハンマドX霊廟 25 エルラシディア・オアシス 42 アトラス山脈ティシュカ峠
9 ラバト・未完のハッサンの塔 26 エルフード ・化石工房 43 参考・アトラス山脈カスバ・テェルウェット
10 メクネス・悠久の城壁都市 27 メルズーガ ・駱駝(らくだ)ツアー1 44 アトラス山脈絶景
11 メクネス・華麗な霊廟 28 メルズーガ ・駱駝(らくだ)ツアー2 45 アルガン油の伝統製法
12 フェス・幻想の迷宮    29 エルフード ・砂漠ホテル 46 マラケシュ・概要
13 フェス・迷宮内の宮廷料理 30 カスバ街道・地下水路 47 マラケシュ・バイア宮殿
14 フェス・技と巧(彫金) 31 カスバ街道・ティネリール 48 マラケシュ・クトゥビーヤ・モスク
15 フェス・一般家庭でミント茶 32 トドラ渓谷 希有・特異地形1 49 マラケシュ・壁と門
16 フェス・技と巧(皮なめし) 33 トドラ渓谷 希有・特異地形2 50 マラケシュ・ジャマエルフナ広場
17 フェス・神学校 34 カスバ街道の絶景



モロッコ現地視察の経路図 グーグルマップ地形図より青山貞一作成


各地点間の距離 マラケシュはオートアトラス山脈の西


 
2014年1月28日、午後、一行はワルザザードを出発し、アトラス山脈を越え、やっとのことで午後2時過ぎに、モロッコ第三番目の都市、マラケシュに到着した。

 下の写真はマラケシュ入りした大型バス。


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Coolpix S8

 マラケシュは今回の現地視察で初めての雨、それもかなりの雨となった。

 いつものように、最初にマラケシュの概要、歴史などを見てみよう! 主な出典はWikipedia、大使館情報。

 マラケシュは、かつて北アフリカを ベルベル人が支配したワッヒド朝 の首都であった。

 ワッヒド朝はチュニジア以西の北アフリカとイベリア半島南部を支配したベルベル最大の王朝。1130‐1269年。スペイン語ではアルモアデAlmohade。創始者アブド・アルムーミン‘Abd al‐Mu’min(在位1130‐63)は,イブン・トゥーマルトの宗教運動を基礎に,アトラス山中の定着民マスムーダ族を率いてアトラス山中のティーンマッラルに建国した。1145年にはイベリア半島に軍隊を派遣,間もなく半島南部を支配し,47年にはムラービト朝を倒し,都をマラケシュに移した。詳しくは巻末を参照。

 地理的にはマラケシュ は、モロッコ中央部、ラバトの南西約280km、アトラス山脈山麓の丘陵地帯、テンシフト川の南岸に位置する都市で、「南方産の真珠」と呼ばれてきた。このマラケシュも世界遺産の文化遺産である。

 マラケシュは標高450mに位置し気候はステップ気候に属する。人口は66万人であり、カサブランカとラバトにつぐモロッコ第3の都市でもある。

 私たちが越えてきたアトラス山脈のうち最も険しい大アトラス山脈の北に位置する。南方45kmには北アフリカ最高峰のトゥブカル山 (4165m) がそびえる。町の東側にはイシル川が流れ、大西洋に注ぐテンシフト川につながる。郊外にはオアシスが点在する。


 マラケシュは東西2km、南北3kmの城壁に囲まれた旧市街(メディナ)と、旧市街の西に広がる新市街からなっている。新市街の西端にマラケシュ駅が位置する。

 マラケシュの旧市街は北アフリカでも最大の規模である。実際、モロッコの他都市を歩いてきた感想としても、確かに大きい。

 旧市街には王宮のほか、バイア宮殿、エルバディ宮殿、サアド朝の墳墓群、ベルアベ陵、アグダル庭園などが含まれる。マラケシュ駅はターミナル駅であり、北に向かってカサブランカ、東へ折れてラバト、フェズへ延びる。以下に現在のモロッコにおける鉄道路線図を示す。

 なおマラケシュの北10kmの位置に国際空港もある。


モロッコ国内の鉄道路線   Source:English Wikipdeia

Marrakesh Railway Station 公式Web


モロッコ国鉄のマラケシュ駅  Source:English Wikipdeia

 下は北アフリカ最大の旧市街をもつマラケシュの主要部。


北アフリカ最大の旧市街をもつマラケシュの主要部
出典:グーグルマップ

 下はグーグルマップで見たマラケシュ。


大きな地図で見る      出典:グーグルマップ

●マラケシュの歴史

 ところでマラケシュは、ベルベル語で「神の国」 (murt 'n akush)を意味する。

 マラケシュを都市化したのは、ムラービト朝のユースフ・ブン・ターシュフィン(位1061年〜1107年)であった。1071年以来本格的な整備を行い、モスクの建設、灌漑路の整備などを行った。また子のアリー・ブン・ユースフ(位1107年〜43年)の時代にもモスクが建設され、1120年にクバ・アル・バディンの霊廟が建設された。クバ・アル・バディンは、もとは、アリー・ブン・ユースフ・モスクの一部をなしていたと思われる。

 ムラービト朝時代にはもっとたくさんの建造物が建てられたが、ほとんどがムワッヒド朝時代に取り壊された。

 1147年、ムワッヒド朝の君主、アブド=アル=ムーミニーンが建てたクトゥビーヤ・モスクのミナレットは、77mに達し、マラケシュの旧市街の象徴的な建造物である。そのほかムワッヒド朝の君主が宮殿に行く途中に設けられたアーチの周辺に花弁状の文様が同心円状に施されたアグノー門や27の橋脚に支えられたテンシフト橋が架けられた。


クトゥビーヤ・モスクのミナレット
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Coolpix S8

 マラケシュではじめて私たちは雨にあった。それまでは快晴。


撮影:池田こみち Nikon Digital Camera Coolpix S6400


撮影:池田こみち Nikon Digital Camera Coolpix S6400


マラケシュの写真
マラケシュ (トリップアドバイザー提供)

 サアド朝時代には、アフメッド=ル=マンスール王のエル=バディ宮殿が建てられたがアラウィー朝時代に入るとほとんどが取り壊され、パレード用の広い庭が残されて、毎年、民俗芸能の祭典を行うのに使われている。

 19世紀に、アラウィー朝の王によって化粧漆喰とアラベスク模様で飾られたバイーヤ宮殿とアグダル庭園が造られた。このような貴重な歴史的建造物の豊富なマラケシュの旧市街地は、1985年に世界遺産に登録された。

 今回最後に訪問したマラケシュも、ラバト、カサブランカなどと同様、都市計画を行ったのは、フランスの都市計画家、アンリ・プロストである。以下にあるように、アンリ・プロストは、旧市街とは新市街は、完全に区分して計画したとしている。

◆フランスの都市計画家 アンリ・プロスト

 レオン・アンリ・プロスト(Leon Henri Prost, 1874年2月25日 - 1959年7月16日)はフランスの都市計画家、建築家。

  モロッコなど、イスラム圏での都市計画に活躍した。エコール・デ・ボザールの出身で、1902年に国立印刷局の課題でローマ大賞を受賞する。

 1912年、モロッコはフランスとの保護領条約に調印、初代モロッコ総督となったルイ・リヨテからモロッコの新首都都市計画の委託を受ける。こうして、1913年以降、モロッコやトルコなどで都市計画に従事することになる。カサブランカではスークをフランス風広場に改造、新市街にはアールデコ様式の建築群を出現させる。

 平坦な農地に建設された新都市フェスの新市街・ヴィル・ヌーベルでは、カフェが並ぶ広場や広幅員の道路に一階部分を柱廊立ち並ばせた沿道型アパルトマンの街並みを、旧市街とは完全に区分して計画した。

おもな都市計画

1914年-1922年 : ラバト首都計画構想のほか、マラケシュ、メクネスなど諸都市の都市改良計画立案
1917年-1922年 :カサブランカ都市計画 (dont la place de France (actuelle Place Mohamed V) et le Palais de justice avec Joseph Marrast).
1922年 : コートダジュール都市計画立案
1928年 - 1935年 : パリ地域圏計画を、ジャン・ルイ、ピエール・レマールらと手がける。
1928年 - 1930年 : メツ市街地都市計画立案
1932年 - 1939年 : アルジェ地域圏計画
1940年:トルコ・ブルザ都市計画案立案。
1936年-1951年 : イスタンブル市街地都市計画立案

出典:Wikipedia

●世界遺産としてのマラケシュ

 マラケシュはユネスコの世界遺産に登録されるとともに、ジャマエルフナ広場の文化空間について、無形文化遺産保護条約の発効以前の2001年に「傑作の宣言」(第1回)がなされ「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、ユネスコの無形文化遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年9月の初の登録で正式に登録された。

 何度か書いているが、モロッコには、下の表に示すようにアフリカ随一の9カ所の世界遺産がある。マラケシュが登録されたのは1985年である。いずれも文化遺産となっている。

モロッコの世界遺産と登録年
1981年●
1985年●

1987年●
1996年●
1997年

1997年
2001年
2004年

2012年●
フェス旧市街                   
マラケシ旧市街                  
アイット=ベン=ハドゥの集落         
古都メクネス                   
ヴォルビリスの古代遺跡
テトゥアン旧市街(旧名ティタウィン)
エッサウィラのメディナ(旧名モガドール)
マサガン(アル・ジャジーダ)のポルトガル都市
近代的首都と歴史的都市をあわせもつ遺産ラバト  
●は今回視察したカ所  出典:国連UNESCO

マラケシュの写真
マラケシュ (トリップアドバイザー提供)


小雨が降るマラケシュにて
撮影:池田こみち Nikon Digital Camera Coolpix S6400


ジャマエルフナ広場の文化空間

 城壁に囲まれた旧市街の中心にある約400m四方のジャマエルフナ広場は、文化と交易の中心として栄えてきた。現在では、屋台や大道芸でにぎわう。ジャマエルフナ (Djemaa el Fna) とは、アラビア語で死人の集会場を意味する。


ジャマエルフナ広場のお店
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Coolpix S8


 下は夕闇となったジャマエルフナ広場。3階建てのカフェの屋上から撮影。この屋上には、世界中から多くの映像、写真カメラマンが来ていた。

マラケシュの写真
マラケシュ (トリップアドバイザー提供)

マラケシュの写真
マラケシュ (トリップアドバイザー提供)


約400m四方のジャマエルフナ広場
撮影:池田こみち Nikon Digital Camera Coolpix S6400



マラケシュ (トリップアドバイザー提供)


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Coolpix S50


 ところで、マラケシュと言えば、ベルベル人のイスラム改革運動を基盤として建設されたイスラム王朝(1130年 - 1269年、ムワッヒド朝の首都であった。

◆ムワッヒド朝とは 


ベルベル帝国の国旗


ベルベル帝国の位置

公用語 アラビア語、ベルベル語

首都 マラケシュ、セビリア

アミール・アルムーミニーン
1130年 - 1163年 アブドゥルムウミン(初代)
1163年 - 1184年 アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世(第2代)
1184年 - 1199年 ヤアクーブ・マンスール(第3代)
1199年 - 1213年 ムハンマド・ナースィル(第4代)
1266年 - 1269年 イドリース・ワーシク(最後)
変遷 成立 1130年 ハフス朝独立 1229年  滅亡 1269年

 ムワッヒド朝(al-Muwahhid?n)は、ベルベル人のイスラム改革運動を基盤として建設されたイスラム王朝(1130年 - 1269年)。首都はマラケシュ。

 現在のモロッコに興り、チュニジア以西の北アフリカ(マグリブ)とイベリア半島の南部アル=アンダルス(現アンダルシア州とほぼ同じかやや広い範囲)を支配した。その名称のスペイン語訛りから、ヨーロッパではアルモハード朝という名前で知られている。

 ムワッヒド朝の起源は、ベルベル人のマスムーダ族出身のイブン=トゥーマルトが開始したイスラム改革運動にある。彼は現在のモロッコ南部、アトラス山脈の出身で、12世紀の初頭に東方への遊学とマッカ(メッカ)巡礼に出た。

 そこでムラービト朝治下のマグリブのイスラムを改革する必要を感じたイブン=トゥーマルトは帰郷すると、ムラービト朝の公定法学派であるマーリク派に属するイスラム法学者を痛烈に批判した。

◆イブン・トゥーマルトについて

概要

 モロッコの宗教運動の指導者。アンチ・アトラス山中のベルベルの一派,マスムーダ族の出身。1106年に故郷を出発,コルドバから東へマシュリクに向かい,アシュアリー派神学やイスラム神秘主義思想,ガザーリーの学問などを学んだ。宗教と道徳の改革の情熱に充たされつつマグリブに戻ってからは,タウヒード(神の唯一性)の教義を説く宗教運動を起こし,21年には自らマフディーと称して,ベルベル人への布教とムラービト朝の打倒とに力を注いだ。

本文

 モロッコ南部のアンティ・アトラス山中のベルベル人系のマスムーダ族の一支族であるハルガ族の出身。1106年、16歳のときに東方へ修学の旅に出た。コルドバにしばらく滞在した後、マシュリクに向かいアレクサンドリアに上陸してメッカ巡礼を果たした。

 その後はバグダードにしばらく滞在し、そこでガザーリーの講義を直接聴いたかどうかは疑わしいが、ニザーミーヤ学院とアレクサンドリアでアシュアリー派に近い神学を学んだとされる。帰国途上に各地でトラブルを起こした。酒屋では酒をぶちまけ、公衆の面前で一緒にいる男女を棒で追い払い、楽器屋で楽器を壊した。

 マラケシュでは法学者らと論争して論破し、男性がヴェールをして女性がヴェールをしないというムラービトたちの独特の慣習を痛烈に批判した。トゥーマルトはスンナ派的な神の唯一性を重視した。このためトゥーマルトに従った人々はアル=ムワッヒド(神の唯一性を信じる人を意味する)といわれた。

 マラケシュでムラービト朝の法学者ら指導者層との関係が決裂すると、故郷のイージーリーズ村に戻り、1121年には自らマフディーと称してムラービト朝に対して反乱を起こした。1124年にはマラケシュの南、タルーダントより100キロほどの地点にあるティンマル(ティーンマッラル)に遷都し、ここを拠点に反乱を続けたが、1130年に40歳で死去した。後継者には部下で友人のアブドゥルムウミンが継ぎ、以後は彼の子孫が継承してムワッヒド朝が築かれた。

 1121年には故郷で自らが救済者(マフディー)であると宣言して、ムラービト朝に対する反乱を開始した[5]。イブン=トゥーマルトは神の唯一性(タウヒード)を重視する教義を説き、そこから彼に従う勢力は「タウヒードの信徒」を意味するムワッヒドの名で呼ばれた。

 イブン=トゥーマルトが1130年に没すると、アブド・アルムーミン(以下私市 (2002)、p.232 以下の表記により「アブド・アルムーミン」と記す。[* 2])が後継者に就き、3代目のマンスールは自らをカリフになぞらえてカリフの称号であるアミール・アルムウミニーン(信徒たちの長)を指導者の称号とした。

 アブド・アルムーミン以降、ムワッヒド集団はアルムーミンの子孫がアミール・アルムーミニーンとして後継者の地位を継承する王朝へと変容するが、ムワッヒドの名がそのまま王朝名として使われることになる。

 アブド・アルムーミンはアトラス山脈に篭ってムラービト朝に対する攻撃を続け、1147年にはマラケシュを占領してムラービト朝を滅ぼした。さらにムラービト朝の衰退後ムスリム(イスラム教徒)の領土へと侵攻していたキリスト教徒たちとの戦いに積極的に乗り出し、イベリア半島のアンダルスやマグリブ東部にまで進出、アンダルスを支配下に置き、ズィール朝やハンマード朝を滅ぼして、マグリブのほとんど全域を支配するに至った。

 アルムーミンの子アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世は、即位以前にセビーリャの統治者を務め、アンダルスに強い関心を持った。彼の治下では哲学者イブン・トゥファイルやイブン=ルシュドが活躍し、アンダルスのイスラム文化が頂点を極めた。

 その子で第3代君主のヤアクーブ・マンスールの時代にはカスティーリャ王国のアルフォンソ8世を破って(アラコルスの戦い)、キリスト教徒によるレコンキスタを防ぎ、東ではリビア西部まで支配下に加えてムワッヒド朝の最大版図を実現したが、次第に王朝のイデオロギーであったタウヒード主義は形骸化し、宗教的情熱に支えられたベルベル人の軍隊が弱体化に向かっていった。

 1212年、マンスールの子で第4代君主のムハンマド・ナースィルはコルドバの近郊でアルフォンソ8世らの率いる十字軍に敗れ(ナバス・デ・トロサの戦い)、アンダルスでの支配力を失った。

 さらにナースィルの治世には本拠地のマグリブでもムワッヒド朝に対する反乱が起こった[14]。既に宗教的な結束を失っていた有力者たちの間での内紛が激化して政治が混乱したが、1229年には、君主自らが布告を発し、タウヒード思想を放棄した[14]。この結果、ムワッヒド朝はますます求心力を失い、地方でもハフス朝が独立するなど[15]、版図は急速に縮小して現在のモロッコ周辺を支配するのみとなった。1269年、新興のマリーン朝がマラケシュを征服し、ムワッヒド朝は滅亡した。

出典:Wikipedia


つづく